オレさまが、ベーブ・ルースだ! (7)

1932年、ルースは年俸の削減、それも大幅な削減が予想されていた。全米をおおう不況は最悪の状態だったし、それに入場券の払い戻しさえもあった(ワールドシリーズ第6戦、7戦がおこなわれなかった)。

契約書を受け取るやいなや、ルースは激怒。33%減の5万ドルとなっていた。数日たって、ルースの怒りもいくぶんおさまってはいたが、それでもラパートはゆずらなかった。しかし、フロリダでの双方、妥協の結果、5万2000ドルで解決。それでもルースは球界一の高給取りに変わりはなかった。

といっても、ルースは、だれの目にも明らかなように力が落ちていた。1933年、打率.301、34本塁打、103打点を記録するとともに、リーグ最多の114四球を記録はした。が、動きはあまりにもにぶく、どたどたと走りまわっているようにさえみえた。

うれしいことも、あるにはあった。この年、初めてのオールスターゲームがシカゴのコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号本塁打を放つ。出場選手を選ぶにあたって、その時点の成績よりも、往年の人気スターが多く選ばれた。このときに打った2ランホームランにより、アメリカン・リーグはナショナル・リーグを4-2で下した。

シーズン終盤には、対レッドソックス戦、投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げた。これは、投手・ルースとしての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、そのすべてで勝ち投手となっている。現役通算で投手として、94勝46敗という数字を残している。

1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームでは王様カール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは引き立て役にまわり、不名誉にもその一人目の打者であった。

同年シーズンは、ルースがヤンキースの一員としてプレーした最後の一年であった。ルースはこの時点で個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意はできていた。

そう、ルースは、選手としての終わりが近づいていることは悟っていた。が、それ以上に、心はヤンキースの監督になることを目指しており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかし、ルパートはマッカーシーを辞めさせる気はなく、逆にこれはルースと、マッカーシーの間に大きな軋轢(あつれき)を残した。

そんなとき、ルパートはルースにヤンキース傘下のマイナーリーグ・チーム、ニューアーク・ベアーズ(現在の独立リーグチームとは別)の監督にならないか、というオファーを出し、監督になるなら、マイナーで監督経験を積んでくるよういった。その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならなかった。
「なんでオレが、マイナー・リーグへ行かなければならないんだ」
と、ルースは拒否。さても、はたせるかな、ルースに示された契約の数字は2万5000ドルだった。実際のところ、この2年間で4万5000ドルもカットされることになったのだ。

されど、バローと、ラパートは、ルースをお払い箱にすることを水面下で画策していた。優勝を限りなく望むルパートは、お荷物になってきたルースを厄介払いしたかったのだ。

そんなこととは露知らず、ルースはメジャーリーグ選抜軍として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。ルースのほかにも、ゲーリッグ、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメス、チャーリー・ゲーリンジャーなども参加。野球はすでに日本でも人気であり、ルースも各地で歓迎を受けた。

そんな極東遠征をふくめルースは、4ヶ月間も国外にいたわけだが、ルースのいない間にいろんなことがおこっていたのだ。



ルースを雇うことを考えているチームは、フィラデルフィア・アスレチックスと、デトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りることを検討もしていたが、撤退。同時期に、タイガースも撤退した。ルパートはここで、真剣にルースの引き取り手を探すことになる。

そんなところに、名乗りを挙げたのがボストン・ブレーブスのオーナー、エミル・フッシュだった。すったもんだの挙句、ようやくルースを引き取ることに合意。ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フッシュは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの家賃を払えない状態でいた。そのため、集客力のあるルースはめっけもんで、ちょうどよい補強であったのだ。
「ルースに、一つの提案をしてみるつもりだ」
と、フッシュはなにくわぬ顔をして、
「もしわれわれの球団に来てくれれば、助監督になってもらい、球団の役員の地位を用意するつもりだ。希望があれば、試合に出たいだけでてもらう」
と、早口で説明した。

いいことずくめだった。ルースは、これがすっかり気に入ってしまった。きちんと契約書にまとめてほしいと、フッシュに要請。かれは長い手紙を書き送った。結果、この調子の良い舌先三寸のうまい話に、ルースはだまされることになるのだ。

電話に、文書にと会議を重ね、ヤンキースはようやく1935年2月26日に、ルースをブレーブスにトレードした。ルースは満足だった。フックスも、ラパートも同じだった。ことのほか満足だったのは、バローだったようだ。なんといっても、ルースにだけはゲームを任せたくなかったかれだ。
「自分自身さえ監督できない者が、どうして他人を監督できるのだ」
と、いわくつきの発言をした張本人だったからだ。

ルースは選手としてだけではなく、チームの副代表として選手の獲得や、人事に関する権限を握ることになる。また、ブレーブス監督ビル・マッケチニーにつかえる助監督にも就任した。さらに、フッシュはルースに球団の利益の分け前を与えると同時に、副社長への就任の可能性、さらには早くて1936年シーズンから監督就任の可能性も伝えていたのだ。

メディアの注目のなかで、ルースは本拠地としてのボストンに16年振りに帰ってきた。ボストンはレッドソックスの牙城であったが、ルースの存在によりボストン市民の注目が集まりつつあった。

対ジャイアンツとの開幕戦には2万5000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利。ルースは、全得点にからむ大活躍を見せた。大投手ハッベルからホームランを放ち、第二戦では数本のヒットを打つも、だがここまでだった。それ以降はルースも、チームもまた低迷。5月20日の時点で7勝17敗と、ほとんどシーズンはすでに終わったも同然であった。

カゼをひき試合を休んだり、スタメンででるも、最後まで残ることは一度もなかった。走塁の衰えは著しく、たまに四球でても、足が遅く、満足に走塁もできなかった。むろん、守備もなっていなかった。フッシュに契約前に、
「空いている外野に入ってもいい」
といわれていたが、守備の衰えはあまりにもひどく、ブレーブスの投手陣は、
「ルースがラインアップにいる以上、マウンドに上がることはできない」
と、ボイコット寸前の姿勢を見せていた。そのうえ、フックスの望んだ観客動員数も、ガタ減りだった。

マッケチニー監督もチーム運営に際してルースの助言を受け入れることはほとんどなく、助監督と、副代表としての役職は名ばかりであったということにルースは怒り心頭。フッシュがルースに約束していた「球団の利益の分け前を与える」も、ウソであった。それだけではなく、フックスはルースにチームに5万ドルの資金を投資することさえ望んでいたのだ。

5月、ルースとフックスは、ついに衝突。球団の経営を助けるため、入場券セールを促進するための催し物に、ルースは無断で欠席。フックスはルースをなじると、ルースも、
「お前さんは、じぶんの仕事をやっていればいいんだ。オレには、オレの仕事があるんだ」
と、大声でわめきかえした。この直後、ルースはフックスと、マッケチニー監督に、
「もうレギュラーとして、出場できない」
と申し出た。が、各地で”ルース・デイ”を企画していて、今すぐ引退できないことはわかっていた。
「オレは間違いを犯したよ。契約にサインすべきじゃなかったよ」
といい、
「オレは、ヨレヨレで使いもんにならん。もう疲れ果てた」

5月25日にピッツバーグのフォーブス・フィールドでおこなわれたパイレーツ戦、ルースは4打席4安打、3本塁打に6打点を挙げるも、チームは7-11で敗戦。現役最後の本塁打となった一本は、外野が途方もなく広いフォーブス・フィールドの場外に消える特大アーチとなった。それまで、場外に消えるホームランをかっとばした者は一人もいなかった。およそ600フィートもあったという。

その5日後の、5月30日、ルースはフィラデルフィアでおこなわれたフィリーズ戦にのぞむ。初回表に三振した後、その裏の守備の際に膝を痛めて、そのまま途中交代となった。まことにあわれな結果となってしまった。これが、ルースの現役最後の姿であったのだ。

そして2日後の6月1日、ジャイアンツ戦が終わった後、ルースは新聞記者をロッカールームに集めて現役引退を表明した。ほんとうはルースは5月12日の時点で引退したがっていたが、フッシュが、
「まだすべてのナショナルリーグの球場で、プレイしていないじゃないか」
と説得していたため、この日になった。が、そんなおり、その会見途中に、
「わたしは、ルースを無条件に解雇した」
と、フックスからヤブから棒に声明文が届いたのである。
「願ったり、叶ったりの話だ。これでせいせいしたよ」
と、ルースはいったものだ。

最後となった1935年シーズン、ルースの成績は打率.181、6本塁打という最低の成績だった。チームはといえば、38勝115敗で終わるひどいありさまであった。このシーズンを、ルース本人は、
「消してしまいたい一年」
と語っている。シーズンオフには、コーチや、監督としてのオファーを待っていたが、どこからもなく、ルースは、
「もしも『君が必要だ』といわれていたら、どこでも喜んでいった」
と振り返っている。ともあれ、もうすべてが終わったのである。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。