時代が、ベーブ・ルースを生んだ。ルースの成功劇は、まさに世界大恐慌前の貪欲なアメリカの生活様式にまさにマッチしていた。バブル狂乱の20年代から、不景気期にはいる30年代前半のころだ。大量生産・大量消費の経済が繁栄し、それを背景とした文化の大衆化が著しく進展。ルースはまさに狂乱のどまんなか、ニューヨークにおあつらい向きのプレーヤーだったのだ。

ルースは、筋骨たくましい多くのメジャーリーガーのイメージとはほど遠く、おデブちゃんであり、子どもっぽい性格もあって、その人気は絶大であった。

かれ自身があまりにも不遇な幼少期を送ったせいか、とりわけ子どものファンには暖かく、それ以上にめっぽう弱かった。
「幻滅されるぞ?」
といわれただけで、泣き出したこともあった。そんなかれと、子どもたちのあいだには、数多くの逸話を残している。まあ神さままがいの信じられない話もあるには、あるが…



有名な話から、ひとつ。1926年のワールドシリーズまえのことだが、ルースは病の床にあった11歳の少年にホームランを打つことを約束し、実際に打ったものだ。

ワールドシリーズがはじまろうという頃、ニュージャージー州エセックス・フェルズ在住ジョニー・シルベスターは、馬から落ち、ひどいケガをして入院した。

父親は、息子を元気づけようと、知人を通してヤンキースとカージナルスのサインボールをリクエストした。ほどなくして、両球団のサインボールがジョニーの元へ届けられた。その時ルースは、
「君のために、ホームランを打つ」
というメモを添えていた。10月6日、ワールドシリーズ第4戦で3ホームランを放った。シリーズ終了後、ニュージャージーで会合があったついでに、ルースはジョニーを訪ね、少年をすっかり感激させた。
「調子はどう?」
といった挨拶や、たわいもない会話があったようだ。でも、これには、ちょっとした後日談がある。

翌年の春のこと、数人の新聞記者に囲まれていたルースのもとに、一人の男があらわれ、
「ジョニー・シルベスターの叔父です。あなたがあの子のためにしてくださったことに対して、もう一度だけお礼を言わせてください」
「いや、なあに。お役に立ててうれしいですよ。それで、ジョニーはどうかね? 」
と、ルース。
「すっかりいいようです」
その立ち去っていく男の後ろ姿を見守りながら、ルースはといえば、
「ところでジョニー・シルベスターって、いったい何者かね? 」
といったものだ。とはいっても、ルースはよく病院や孤児院、子供のための施設を訪問した。出きる限り時間をさき、仕事をやりくりし、病気の人や、不幸な目にあっている人々を元気づけたという話は数え切れないほどある。自分自身が健康体でなくなっても、それを実践し続けたのだ。

もうひとつ、ルースならではの話がある。練習嫌いでわがままなイメージがあるが、それは違う。あの60本ホームランを放った翌年、フロリダでのスプリング・キャンプでの練習は凄まじいものだった。

ラバー・コートを着て、毎日のように走り、打ち、滝のように汗を流し続けた。そんなとき、記者がきて、
「61本を目指しているようだが、バットを短くもってレフト側に流し打ったら、4割打者にもなれるはずだ」
と訊ねたら、ルースは笑って、
「おお神さま、断じてそうじゃないね。お客さんは、たった1本でもいい、ライトにホームランを打つのを見たがっていると思うね。(バットを指して…)このホームラン・ラケットで、わたしは高給をもらっているのだよ」
ルースだからこそ、自分をよく知り尽くしてるまさしくそんな言葉ではなかろうか。

ルースは1895年2月6日、アメリカ東部のメリーランド州・ボルティモアの波止場で居酒屋を営むジョージ・ハーマン・ルース・シニアと、母ケイト・シャムベルガー・ルースの間に生まれた。ルースを含め、9人の兄弟姉妹のなかで、幼少期を生き抜いたのは、ルースと5歳年下の妹だけだった。

ルースの生活ぶりは、けっして感心するようなものではなかった。母親が病弱なうえに、父親は居酒屋の仕事で忙しかったせいもあろう。学校をさぼり飲酒・喫煙などの非行に走りはじめ、万引きや喧嘩も日常茶飯事だった。

数々の非行を繰り返すにいたり、我慢の限界に達した両親は、ルースをカトリックの更生施設兼孤児院・「セント・メアリー少年工業高校」へ送り込むことになった。7歳のときだった。

そこで、最初にルースに野球の仕方を教えてくれた一生涯の恩師に出会うことになる。教官を務めていたローマ・カトリック神父のブラザー・マシアス・バウトラー、その人だった。

マシアス神父は大男で、身長約198cm、体重113kg、それに俳優としてでも活躍できるのではないかという美貌の持ち主だった。神父はルースに野球への才能を見出し、休み時間でさえもルールや打撃・守備のやり方などを教えた。

やがてルースは施設の少年野球チームの一員になり、チームのエースとして活躍するようになった。はじめのうちは捕手、つづいて投手もやることになった。まあ、左投げの捕手とは信じられないが…、そのころの写真がのこっている。

また神父は、ルースに勉強や洋服の仕立て方も教えていた。セント・メアリーでは、少年たちの未来のためにさまざまな職業訓練をおこなっており、ルースは仕立屋になるための訓練を受けていた。年をとっても、針仕事はうまかったそうだ。

父は、ルースが23歳の時に、自身が経営していた居酒屋で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。母親が亡くなった時には非常に悲しんだそうだが、父親とは疎遠だったために、亡くなった時もそれほど悲しんだ様子はなかったようだ。

元々居酒屋で働きづめだった父親とはあまり顔を合わせることもなく、7歳の時からセント・メアリーで、その父よりも長い期間をマシアス神父とともに過ごしたルースにとっては、マシアス神父こそが父親のような存在だった。

マシアス神父の指導によりたぐいまれなる野球の才能を生み出したルースだったが、そんななか、かれの素晴らしいピッチングに目を惹いたのが、ジャック・ダンだった。地元ボルチモアのマイナーリーグであるオリオールズ(現MJB球団)のオーナーだった。

当時、オリオールズでは、選手たちを、ボストン・レッドソックスに入団するべく訓練させていた。そしてある日、ルースの活躍を見に来た。ダンはワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)の投手ジョー・エンジェルから、「すごいやつがいる」、と紹介され、見に来たのだった。

そしてダンは、たった30分ほどルースの練習風景を見ただけで、即座に年給600ドルの契約を結んだ。1913年のことだった。ルース、18歳のことだった。法的な保護者のサインは、ダンが引き受けることになった。というのも、15歳の頃に母親を結核で亡くしており、父親とは疎遠になっていたことからだ。

このころのルースは施設を出たばかりで子どもっぽい性格であったことから、その様子を見たチームメートから、「ダンの可愛い子ちゃん」という意味の「ベーブ」というニックネームをつけられることにもなった。「ベーブ・ルース」の誕生だ。

ルースはやがて、オリオールズから、ボストン・レッドソックス経由でニューヨーク・ヤンキースに入ることになる。ヤンキー・スタジアムは、ルースがホームランを量産しはじめた頃、1923年につくられた。それで、別名「ルースが建てた家」ともいう。

ルースはそのご自慢のホームランによって、野球ファンのイメージを一変させたのだ。「飛ばないボール」での逆転劇は稀有のことだった。が、ルース出現後、いつもその可能性をもつゲームに変わったのだ。ホームラン・ベイカーといわれた男でも、シーズン10本が最高だというのに…

参考:『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)