オレさまが、ベーブ・ルースだ! (8)

「わたしのつとめは全部おわった。これからじっくり休んで、のんびりするんだ」
1948年7月26日夜、プレミア・ショーでの「ベーブ・ルース物語」を終わりまで見ることなく途中退場したものの、満足したような口ぶりだった。ルースは病院に戻り、ふたたびそこをでることはなかった。8月16日、肺炎のため、53歳でその生涯を閉じた。

すでに現役を引退したルースは、翌1936年、アメリカ野球殿堂の初期メンバー5名のうちの1人に選ばれた。

その2年後の1938年、ブルックリン・ドジャースのゼネラル・マネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、一塁コーチに就任する。

マクフェイルは死に体になっていたブルックリンのフランチャイズに息を吹き込むため、あらゆる限りの手を打っていた。そんな時、以前シンシナティで「ベーブ・ルース・デー」の企画が当たったことを思い出した。ルースは、いまだに野球界の最高の看板だった。

その年の残りのシーズン、かれはルースをコーチとしてユニホームを着せることを思いついた。5月の末、かれは次期後任監督のドローチャーに、
「ユニホームを着せたらどうだろう」
と話してみた。契約はなった。1万5000ドルだった。実際のところ、ルースの仕事とはいえば、ファンがかれをみることができるように、ユニホームを着て、グランドに立っていることだった。ルースみたさに、観客がたくさん入った。ルースは、十分に給料に見合うだけの働きはした。

また、打撃の指導などのほかに、若い選手にファンへのサービスが悪いことを注意もしていた。が、コーチャーズ・ボックスに立っていたものの、監督からのサインをランナーに伝えることをいっさいやらなかった。というか、ルースにすれば、選手生活時にはサインなんてぼんくらがやることであって、頭から無視していた前例があった。

が、一方では、ルースの弱い頭では、複雑な過程のサインはとうていできなかったという批判もある。そんなサインでの事件があった。1ー0で勝ったその試合で、ある新聞記者がルースがヒット・エンド・ランのサインをだしたと書いたのだ。

その記事をみたグライムズ監督、ドローチャーらは腹を立てた。ましてやドローチャーはルースを軽蔑の目で見ており、一度ならず取っ組み合いをしたこともある。それは、やってもない、またやらしてもないサインだったのだ。ドローチャーと、ルースはクラブハウス内で派手な口論になり、取っ組み合い、あげくは殴り合いになってしまった。

ついには、そのことが、ルースがサインをだす能力がないというばかばかしい話になってしまい、ルースへの監督話は決定的になってしまった。わずか1年たらずで辞任してしまい、これが、MLBにおけるルースの最後の仕事となった。

1939年1月、ラパート大佐が死んだ。ゲーリックも死にかけていた。ルースも万全ではなかった。ゴルフ、ボウリング、そして狩猟の生活にひたっていたが、車での事故を起こしたことをひどく気にしたり、ゴルフ場で軽い心臓発作をおこしたり、カゼの症状が重くなり病院に運ばれもした。

第二次世界大戦中の1943年、ヤンキー・スタジアムでおこなわれた陸軍のチャリティー・ゲームで、ルースは代打として登場。四球を選ぶ。2ヶ月後、軍隊チームの監督をつとめ、自ら代打を志願して、またも四球で出塁も、ピンチランナーを帰らせたが、次打席でヒットを放ったものの、ピンチランナーはうけいれた。実際にびっこをひき、息を切らしていたのだ。

1946年のこと、ルースは左目に激しい痛みを訴えるようになった。同年11月に、ニューヨークのフレンチ・ホスピタルを訪れた際、首に腫瘍があるのを発見される。腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでしまっていた。放射線療法による治療を受けるものの、1947年2月に退院する頃には36キロも体重が落ちていた。

しかし、この当時、化学療法が飛躍的な発展を遂げていたことが、ルースにとっての救いであった。ルースは激しい頭痛や、ガラ声に見舞われていたが、新薬が投入されたことにより、一時的に症状は緩和することになった。頭痛は回復し、体重も9キロ戻った。今では、ルースの病名は鼻咽頭癌の一種であったことがわかっている。

1947年4月27日、古巣・ヤンキースはヤンキー・スタジアムにて「ベーブ・ルース・デー」を開催した。

しかし、ルースはといえば、やせ衰え、どす黒い顔色で、声もがらがら声に変わっていた。健康状態は依然不安定であったものの、ルースは6万人を超える観客の前で、マイクに口を近づけ、スピーチをした。
「ありがとう、みなさん」
と話しはじめた。別だん草稿はなく、即席の挨拶だった。

ルースは心を込め、野球と、次世代をになう子供たちに向け、愛情をこめて話した。のちにルースはベーブ・ルース財団を設立させ、恵まれない子供たちへのチャリティー活動をおこなう。このチャリティーへの募金活動のため、同年9月には、ヤンキー・スタジアムにて「ベーブ・ルース・デー」がふたたび開催された。

1947年春のこと、取り除かれなかった腫瘍が大きくなり、耐えられない日々が続くようになった。ルースはどこが悪いのか知らなかったし、だれも話さなかった。みんなは、ルースが取るべき次の行動がわかっていたのである。そう、病院の窓から飛び降りることだったのである。

1948年6月13日には、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号『3』が永久欠番に指定されることとなった。

ルースはもはや、バットを杖代わりに使わざるをえないほど衰えていた。この時撮られた写真は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、これによってカメラマンはピュリッツァー賞を受賞している。

その時、当時存命していたヤンキースの古いメンバーとのしばしの再会を、楽しんだ。
「やあ、ベーブ」
と、デューガンがクラブハウスでコートをかぶっていたルースに近づいて、
「飲めるのかい? 」
「ビールならね」
と、ルースはいった。そして、チビチビと飲みはじめるや、
「ジョー、オレはもう死ぬ。死んでしまうんだ」
ルースは泣きはじめ、デューガンも泣いた。



ヤンキー・スタジアムでの同イベント参列直後、ふたたび入院生活を送るようになった。当時の大統領のハリー・トルーマンからの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取った。その大部分はルースが愛してやまなかった子供たちからのもので、それらの処理を手伝ったのが、クレア夫人である。

1948年7月26日、ルースは自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列する。その映画をみているうちに、気分が悪くなり、終わりまでみないで退場した。これが、ルースが公式の場に現れた最後の姿となった。その直後から入院生活に戻ったが、すでにほとんどしゃべれないほどに衰弱していた。

8月になると、ルースの病状がますます悪化していることが周知の事実となるなかで、病院の外には記者やカメラマンが殺到し、数人の者しか面会できないようになっていた。許されたうちの一人であった当時ナショナル・リーグ会長、フォード・フリックによれば、
「ルースは、信じられないくらい細くなっていた。かれは大男であったのにもかかわらず、腕はほとんど骨と皮のみになっており、顔も痩せこけていた」
と証言している。
「わたしは2、3分いて部屋を出た。翌日、ベーブ・ルースは死んだ」

ルースの遺体はヤンキー・スタジアムに2日間安置され、この時に別れを告げるべくスタジアムを訪れた一般人は、およそ15万人を数え、そのうちのほぼ半数は子供たちだったといわれる。

安置後、遺体はニューヨーク・セント・パトリック大聖堂に移されて葬儀がおこなわれ、その後ホーソーンにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地に埋葬された。現在、同所にあるルースの墓への献花は、今も絶えない。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。※「英雄ベーブ・ルースの内幕」(ロバート・クリーマー 著 宮川 毅 訳)