オレさまが、ベーブ・ルースだ! (5)

ルースは、大リーグのレコード・ブックのページを驚異的なスピードで、つぎつぎと書き加えていった。しかし、そんな超人・ルースもある時期に、どん底を味わったものだ。

ルースはつねに大ゲサで、調子の良い話を早口でまくしたてるような男だった。あげくはパーティー三昧のだらしない生活態度はエスカレートし、ヤンキース移籍から5年経った1925年にピークを迎えることになる。実際、この年のルースは、最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送るはめになった。

妻・ヘレンとの結婚生活も、すっかり破綻にひんしていたのだ。ヘレンは、ルースの女遊びに我慢ならなくなっていて、もうついていけなくなっていたのだ。

だけれども、それよりも先、ルースはこれぞという”もう一人の女性”にめぐり合っていた。名前は、クレア・マーリット・ホジソン夫人。たぐいまれなる美貌の未亡人だった。それに、彼女にはセックスを超越した何かがあった。ルースは恋に落ち、そのうち二人は一緒に、公然と姿を現すようにもなった。

その年の冬だった。やはり日頃の不摂生が想像以上にたたり、ルースの野球人生に大きな影が落ちはじめた、その頃だった。元フライ級チャンピオンのアーティー・マクガヴァンのジムを訪れた。マクガヴァンは引退後の1925年に、ニューヨークでセレブ御用達フィットネスクラブ・「マジソン・アベニュー・ジム」を経営していた。

ぶくぶくに太ったルースのその時の体重は、118キロ以上あったようだ。さすがのルースも考えることがあったのだろう。そこで、ルースは徹底したトレーニングと、生活改善をおこない、全盛期以上の肉体を取り戻したのだ。

指導法は、鬼軍曹のごとく真面目で厳しいものであった。顧客の食事は管理され、バランスのとれた食事を推奨。トレーニングそのものも過酷で、一切の妥協も許されなかった。

ルースは、厳しいトレーニングに真面目に取り組んだ。健康を取り戻さなければ、野球選手としてのキャリアが終わってしまうとわかっていたからだ。1日4時間のトレーニングで、筋力をアップさせると同時に、体重を減らしていった。ハンドボールや、ゴルフも取り入れ、汗を流し続けた。

その後もルースは、マグガヴァンのジムに通い、なかでもボクシング・トレーニングを積極的に取り入れていた。記者たちがルースと、マクガヴァンとのスパーリング撮影のためにジムを訪れると、
「俺は、ヤンキースにとって8万ドルの価値がある選手だ」
といい放った。
「そして俺が今一番に望むのは、脚の強化と、筋肉の軟化だ。ここにはじめて来た頃の体重は118キロだった。今はとても快調だから、あと数年の契約も問題ない」

そのかいあってか、翌1926年のシーズン、ルースは打率.372、ホームラン47本と全開。本来のルースが戻ってきた。が、一方では、妻のヘレンとはふたたび別居。彼女はボストンに帰ってしまい、和解は不可能となってしまった。ついに夫婦として一緒に暮らすことは、二度となかった。

さても、その年、GO! ルース。GO! ヤンキース。あたりまえのようにヤンキースはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズへと駒を進めた。ルースあってのヤンキースだった。しかしながら、とりもなおさずルースの活躍もかすむほど、新人・ラゼリーの卓越した活躍があったからだともいえよう。だけれども、残念ながら、セントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れてしまった。

というのも、ルースは第4戦に3本の本塁打を放つなどバットでは貢献したものの、彼らしくない考えられない走塁ミスを犯した。2対3とヤンキースが1点を追っていた第7戦のこと、9回ウラ2アウトで、一塁走者だったルースが突然にも二塁盗塁を敢行も、あっけなく刺されてしまい、チームは敗退。これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わったケースとなっている。ルースは、シリーズ最低男になってしまったわけだ。

なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年にホームランを打つことを約束し、実際に打ったものだ。

ワールドシリーズがはじまろうという頃、ニュージャージー州エセックス・フェルズ在住ジョニー・シルベスターは、馬から落ち、ひどいケガをして入院した。

父親は、息子を元気づけようと、知人を通してヤンキースとカージナルスのサインボールをリクエストした。ほどなくして、両球団のサインボールがジョニーの元へ届けられた。その時ルースは、
「君のために、ホームランを打つ」
というメモを添えていた。10月6日、ワールドシリーズ第4戦で3ホームランを放った。シリーズ終了後、ニュージャージーで会合があったついでに、ルースはジョニーを訪ね、少年をすっかり感激させた。
「調子はどう?」
といった挨拶や、たわいもない会話があったようだ。これには、ちょっとした後日談がある。

翌年の春のこと、数人の新聞記者に囲まれていたルースのもとに、一人の男があらわれ、
「ジョニー・シルベスターの叔父です。あなたがあの子のためにしてくださったことに対して、もう一度だけお礼を言わせてください」
「いや、なあに。お役に立ててうれしいですよ。それで、ジョニーはどうかね? 」
と、ルース。
「すっかりいいようです」
その立ち去っていく男の後ろ姿を見守りながら、ルースはといえば、
「ところでジョニー・シルベスターって、いったい何者かね? 」
といったものだ。とはいっても、ルースはよく病院や孤児院、子供のための施設を訪問した。出きる限り時間をさき、仕事をやりくりし、病気の人や、不幸な目にあっている人々を元気づけたという話は数え切れないほどある。自分自身が健康体でなくなっても、それを実践し続けたのだ。

1927年、ルースは歴史的偉業の一つをなしとげた。それはまた、なんといっても、ヤンキースは大リーグはじまって以来の最強チームだったこともあった。ヤンキース打線は、あまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれたものだ。

ヤンキースはリーグ記録となる110勝を達成し(154試合制での記録。後に2001年のシアトル・マリナーズが162試合で116勝を達成)、19ゲーム差でリーグをなんなく制覇。ワールドシリーズでも、ピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。

当然のことのようだが、ヤンキースのリーグ優勝が早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本の本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録は、ルース自身が持つ「59本」であった。

その60号を達成するには、プラスの要素もあった。強力打線ゆえに打席がたくさんまわること、そして、チームメイトであるルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中までは、ゲーリッグはルースの本塁打数を上まわっていたのだ。

しかし、8月10日以後、ゲーリックは9本塁打しか打てなかったが、ルースは25本を放った。それは、シーズンの終わりが近づくにつれ、そのペースは早くなっていった。53本になったときは、なお7本が必要だったが、あと9試合しか残されていなかった。けれども、新記録を目前にして、ルースの勢いはとどまるところを知らなかった。続く3試合で、3本塁打を放ったのだ。

それにもまして、いまやわずか4試合しか残されていず、60本にはなお4本が必要だった。アスレテイックスの難敵レフティ・グローブから満塁ホームランを放った。57号までは、こぎつけた。

2日後の対セネタース戦。9月29日、右翼スタンドに58号、そのあと満塁の走者をおいて59号をたたきこんだ。

シーズン最終戦一日前の試合だった。シングル・ヒット2本、ホームランは出ない。が、その4打席目だ。もうルースを止めることはできなかった。ザカリーのビンボールまがいの高めのカーブをとらえると、打球は右翼席の奥深く消えた。ルースの、いままでもない悪球打ちだった。
「みたか! 60本だぞ。これに挑戦する奴がいたら、お目にかかりたいね」
と、ルースは思い切り大声で叫んだ。

151試合の出場で60本塁打に加え、ルースは打率.356、164打点、長打率.772を記録。じつに4度目の本塁打記録更新であった。

1928年も同様、ヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放すことに成功はしていたが、その後はケガ人の増加に、投手陣の崩壊なども重なり、チームは停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に一瞬だけ1位を奪還することに成功。が、同月の対アスレチックス4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再奪還することになる。

ルースの成績も、チームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは前年の60本ペースをさらに上まわるものであった。ところがシーズン後半には踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月ではたったの12本しか本塁打を打つことができなかった。それでも、最終的にシーズン54本塁打を残し、自身4回目の50本塁打を記録することとなった。

ワールドシリーズは、またもや1926年シリーズの再戦となった。対戦相手のカージナルスは、ホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームとは変わってはいなかった。

このシリーズで、ルースは打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦ではまたまた3本の本塁打を放つ。さらにゲーリッグも打率.545を記録。ヤンキースは、ワールドシリーズでの4連勝を2年連続で達成した初のチームとなった。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。