裸足のジョー! (3)

Field of Dreams、裸足のジョー!(3)

1915年のことだ。ア、ナ両リーグに割って入ろうとした第3のリーグ、フェデラル・リーグとの争いで、入場者がガタ減り。とりわけ、ナップスはひどかった。前年も、ジョーのひとり舞台でもあったが、最下位。

観客の急激な落ち込みは、チームの財政を危うくしかねなかった。それは、ついに8月、金になるジョーをシカゴ・ホワイトソックスに売り飛ばすという結果を生んでしまった。

その同じ年、ホワイトソックスはといえば、アスレチックスから『10万ドルの内野陣』の1角である名二塁手エディ・コリンズを獲得して、十分優勝を狙えるチームとなっていた。

シカゴでのジョーのデビュー戦は、華々しいものだった。かれのライト前ヒットで延長戦を制したのだ。ジョーには1万ドル支払っていると吝嗇化のコミスキーは広言し、かれのお気に入りとはなったものの、実際の俸給は6000ドルでしかなかった(大学出のエディ・コリンズは別格)。

父親は上院議員という恵まれた家庭環境で育ってはいたものの、コミスキーはいち選手から、大リーグのオーナーになった傑物ではある。しかし、球団を私物化し、ケチというか、しみったれオーナーと評判だったのだ。大リーグ球団で最も利益をあげているチームのひとつでもあったが、選手への支払い総額は、一番低かった。

選手のユニホームのクリーニング代をも出さなかったというから、徹底している。選手たちのユニホームがいつも汚れていたためか、”ブラックソックス”とも揶揄されていた。守銭奴・コミスキーといわれるゆえんだ。

とうぜん、選手たちはコミスキーに対する不満や、うらみがあった。そんな険悪な雰囲気をのっけからつきつけられ、ワールド・シリーズ出場も夢ではないと意気込んでいたジョーには、ショックをあたえるに充分だった。この年、ジョーの打撃成績は、.308と最低だった。

1917年、ホワイトソックスは100勝をあげ、2位のチームに10ゲーム差をつけ優勝を飾った。そして、マグロー・ジャイアンツをしりぞけ、11年ぶりのワールド・シリーズの覇者となった。しかし、ボーナスを約束していたコミスキーは、安いシャンパン、1ケースを提供しただけだった。この年、ジョーはまたも最低の打撃成績の301。

そんなころヨーロッパでは、戦争がはじまっていた。第1次世界大戦だ。アメリカの参戦も、時間の問題となっていた。徴兵で戦争におもむく選手もいたなか、ジョーは家族を養わなくてならないという理由で、徴兵を免除され、アマチュア・リーグで活躍。

徴兵回避でのジョーは、コミスキーまでもが、
「野球をやる資格のない臆病者だ」
とののしられ、新聞でもさんざんたたかれはしたが、1919年チームへの復帰はファンが一番喜んだ。

しかし、チームの状態は最悪。チーム内は、あいかわらず険悪だった。そのうえ投手は力不足で、とても優勝をのぞめるチームではなかった。選手同士の気まずさ、コミスキーとの不和。賃上げを望むも、コミスキーは完全無視。

ところが、スピットボールの名手シコッティと、ウイリアムズの二人で52勝をあげ、ジョーは負傷しつつも、打撃成績が358と、この6年間で最高の成績をあげ、2位のクリーブランドに3ゲーム差をつけ優勝をさらったのだ。ジョーは、ア・リーグの各打撃部門ですべて上位を独占し、最高の選手であることを証明した。



ワールド・シリーズの期待がふくらむなか、そんな最中にジョーは、コミスキーに自分を外してくれと直訴した。ジョーにこのような行動を取らせるようになった成り行きと、ジョーの願いが拒否された事情などすべてが、「ブラックソックス・スキャンダル」に結びつけられるようになるとは、ジョーの知るよしもなかった。

ウワサは、シリーズ前からあった。これはいつものことだった。しかしながら、この年、ワールド・シリーズは9回のシリーズ戦となったが、史上最強軍団であったはずのホワイトソックスは、3勝5敗でシリーズを失ってしまったのだ。

1919年のシーズンも終わる頃、ジョーはレッドソックス戦のため、ボストンにいた。ケンモア広場を散歩していたジョーのところに、一塁手のギャンディルが近づき、
「あることをでっちあげて、1万ドル手に入れる気があるか? 」
と誘われた。ギャンディルは、マフィアとのつながりがあるといわれていた。
「もうすでに7人の選手が同意している」
ともいった。ジョーは断った。すると、ギャンディルは困ったような顔つきをして、
「おまえも仲間だと、ギャンブラーたちに伝えている」
といった。その後、シカゴに戻ってくるや、
「引き受けようと引き受けまいと、おまえの勝手だ。好きなようにやればいいさ」
と、捨てせりふをはいて行ってしまった。

野球賭博は、当時禁止されてはいなかった。八百長シリーズだって…、毎年耳にすることじゃないか。そんなウワサどこからくるんだろう。それでも、ホワイトソックスの選手たちのプレーが、どこかおかしいことに気づきはじめた。

その一人、レッズの名選手・エド・ラウシュ(のち野球殿堂入り)によると、
「第2戦が終わったあとだった。知り合いが駆け寄ってきて、『このシリーズでは、八百長で、きみのチームが勝つようになっている』といってきたのだ。信じられなかった」

ジョーは、野球を楽しめなかった。それでも熱心にプレーをしたが、ホワイトソックスの選手の何人かは、実際にわざと負けるようなプレーをした。

現在では、ギャンブラーと、その策謀にかかわった選手たちの間では、八百長をやるときのサインが決まっていたことが知られている。その第1戦、ホワイトソックスのエース、制球力の良さで知られるエディー・シーコットは、レッズのトップ・バッターにデッド・ボールをぶつけるようになっていたのだ。その策謀に関わっていない選手たちには、たまたま手元がくるったとしか思えなかった。公衆の面前で、堂々とおこわれていたのだ。そんなウワサを、一部のギャンブラーが聞きつけ、新聞にも連日、書かれはじめた。

ジョーは、ウワサが広まり、八百長仲間と見られるのがイヤで、コミスキーに事情をはなそうとしたが、かれは応じようとはしなかった。チーム力が劣ってしまうだろうし、それにいつかは立ち消えになるだろうと思っていたフシがある。

はたしてジョーは不正をやったのか。実際、ジョーは両チームのどの選手よりも多くのヒットを打った。一捕殺、無失策。八百長をやりながら、12本のヒットを打ち、.375の打率を上げる、そんなことが可能なのか。この12本のヒットは、ワールドシリーズはじまって以来の新記録だった。

シリーズ最終戦が終わったとき、ホテルのジョーの部屋に、
「1万ドルの約束が、5000ドルになった」
と、不平をこぼしつつ、ウイリアムズが札束のつまった封筒を渡そうとやってきたが、ジョーは受け取らなかった。そのかわり、
「お前も裏切ったのか」
と、大口論となり、ジョーは部屋を飛び出した。かれとは家族ぐるみの付き合いがあったのだ。戻ってみると、かれはいなかったものの、金の入った封筒はそのままあった。ジョーはふたたびコミスキーに会いにいったが、またも門前払いをくった。

そのくせコミスキーは、あらゆる情報から八百長は真実だと確信していたのだ。新聞記者たちには、
「何も知らない」
とか、
「八百長に関する証拠を提供したものには、1万ドルの賞金を与える」
と、発表した。しかし、アメリカンリーグ初代会長でもあり、独裁的なナショナル・コミッションをもつバン・ジョンソンは違った。球界全体に大変な被害をおよぶのを承知で、かれはこのスキャンダルに対処したのだ。証拠集めには、1年を要したものの、必要な証拠がそろうと、ジョンソンはすぐさま行動に出た。

それも、ホワイトソックスほか2チームによる白熱した優勝争いをやっている最中だった。それは、なにがなんでも、ホワイトソックスの八百長選手をワールド・シリーズに出場させたくなかったのだ。

これはまた、野球の運営に対する批判ともなった。皮肉なことに、その組織らしい組織もなく、統率するリーダーもない時期に、この危機を迎えたともいえる。

このスキャンダルが契機となり、あらたにコミッショナー制度がもうけられることになった。そして、野球に利害関係を持たないコミッショナーを立てようとする意見が通り、すったもんだのすえ、野球を愛するランディス判事に白羽の矢がたった。



さて、その裁判の結果はというと、シコッティと、ジャクソンの証言記録が、大陪審のファイルから消えてしまう事件もあって、選手たちは起訴されたものの、全員無罪の評決がくだされた。ギャンブラーたちがカゲで糸を引いていたのは、ほぼ明らかだったが、肝心の部分が闇につつまれたままあいまいな判決となった。

裁判の記録によると、フィラデルフィア出身の元ボクサー、ビリー・マハーグと、レッズの元投手・ビル・バーンズに端を発した。

マハーグの証言によると、ホワイトソックスのエディー・シーコットが、シーズン中にビル・バーンズ接近。シーコットは、八百長には、あと6人の選手を抱き込むために、10万ドルを調達できるかたずねた。

しかし、2人で処理するには大きすぎると思い、ニューヨークの暗黒街の大物・アーノルド・ロススティーンに接触。が、かれは断った。その後、2人は、ロススティーン一家のボクシングのチャンピオンだった、エイブ・アデルと策謀。これにのったホワイトソックスの選手は、ジョーも含め、8人になっていた。

大陪審のはじまる前、選手たちと、何人かのギャンブラーは起訴されたものの、アデルはカナダへ、バーンズはメキシコに逃げた。エディ・シーコットは、チック・ガンディルに責任をなすりつけた。
「ガンディルは、野球選手になる前、ろくでもない連中とつきあっていた。だからこそ、シリーズで八百長をやろうと思いつくのも簡単だった」

選手はそれぞれ個人的に、ガンディルと交渉した。ガンディル、リズバーグ、それにマクミリンが首謀者であり、ガンディルがそのリーダーだったと、自供した。ガンディルは出頭を拒否し、アリゾナへ逃れ、その後の消息は聞かない。

1921年の8月、初代コミッショナーに任命されたランディス判事は最終的な決定案を発表した。
「陪審の評決とは関わりなく、八百長をおこなう選手、八百長を請け合い、また約束する選手、八百長の方法、手段を共謀、討議するところにあって、不正選手および賭博者との会合に同席しながら、そのことをクラブにただちに告げない選手は、以降プロ野球界から永久に追放する」

ジョーはその後、セミ・プロチームで野球を続けていたが、寄る年波に勝てず、晩年は故郷に帰り、居酒屋を経営した。その間、ジョーの名誉回復運動もたびたびあったが、ランディスをはじめ歴代のコミッショナーは黙殺した。

そんな30年以上も経ったある日、ジョーに朗報が舞い込んだ。人気テレビ番組エド・サリバン司会の「町の名士たち」の出演依頼だ。しかし、不名誉を晴らし、無罪を訴えようとするその4日前、心臓発作で急死。永久追放処分のまま、生涯を終えた。

参考文献:『折れた黒バット』(ドナルド・グロップマン著 小中陽太郎訳 ベースボール・マガジン社刊)

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