ヨギ・ベラ

■■[MLB・捕手] お題は、捕手3題(その3)

不思議ちゃん、勝ちまくる!

「ベラは、たいへん傑出した能力を持つたいへん変わった人物だ」
と、ケーシー・ステンゲル監督はスポーティング・ニュースのインタビューで、こう評している。ある種不思議ちゃんと見なされていたにもかかわらず、グラウンドでは勝っては、勝ちまくったことこそが、ベラの人気の理由でもあった。

本名、ローレンス・ラリー・ベラこと、ヨギ・ベラ(Yogi Berra)。ヤンキース一筋19年。個性と、実力を兼ね備えた伝説のプレーヤーだ。3回の最優秀選手(MVP)に輝き、ワールドシリーズの13回出場、10回優勝は史上最多。セントルイス出身。

無学無教養の野人丸出し。それに、大きな耳に太い眉、ギョロリとした目。ずんぐりした体つきで、顔がやたらデカいのに、短足というアンバランスな体型。まるで漫画のキャラクターのような風貌だった。また、独特な言いまわし、いささかナンセンスでありながら、賢人風でもあるユーモラスな発言は『ヨギイズム』として、多くのファンに親しまれていた。たとえば、
“Baseball is 90 % mental, the other half is physical.”
“Slump? I ain’t in no slump! I just ain’t hitting.”
と、まあ、こんなたぐいだ。名前の”ヨギ”とは、「ヨガ行者」のこと。

10代初めのある日、ラリーは友達と映画を見に行き、インドの観光映画を見ていると、ヒンズーのヨガ行者が足を組んで画面に現れた。友人の一人が、その行者の姿勢は、グラウンドで打席を待っているベラの格好にそっくりなことに気がついた。



さても、ベラのキャリアが傑出しているのは、いかに勝ちまくったかということだ。1946年から1985年までに、選手、コーチ、監督として、ワールドシリーズになんと21回も出場した。最初はフィル・リズ—トやジョー・ディマジオと、その後はホイットニー・フォードやミッキー・マントルと一緒に強力なヤンキースでプレイし、かれはワールドシリーズ優勝チームに、1947、49、50、51、52、53、56、58年と名を連ねたのだった。1961、62年には、控え捕手兼外野手として、チームの優勝に貢献している。いまだに、ワールドシリーズの出場試合数、捕手としての出場試合数、安打数、二塁打数の記録保持者である。

ベラは、1925年5月12日にザ・ヒルとして知られるセントルイスのイタリア人居住地で生まれた。5人兄弟の4男だった。父・ピエトロは建設労働者や煉瓦職人として働いており、母・パウリーナは、ミラノ近くの村、マルヴァリオ出身の移民だった。

それに、後年カージナルスの大捕手となったジョー・ガラジオラとは、兄弟のような関係で育った。両方の父親同士が同じ会社に務めていた関係もあって、家族ぐるみの付き合いだった。

運動には熱心だったが学業には無関心だったので、ベラは8年生で学校をドロップアウトした。そして、アマチュア少年野球リーグであるアメリカン・レギオン・ボールでプレイしながら、いくつかの仕事をしたものだ。

父親の反対を押し切って野球に没頭していたベラは、親友ガラジオラとともに地元のセントルイス・カージナルスの入団テストを受けた。16歳のときだった。当時のゼネラル・マネージャーはブランチ・リッキーだった。しかし、リッキーはガラジオラを高く評価し、契約金500ドルを提示したのに、ベラにはその半額の250ドルしか提示しなかったらしい。ガラジオラは即契約し、ベラは拒否した。

ガラジオラの活躍を横目に、かれはリージョン野球にいそしんだ。が、やがてヤンキースのスカウトの目に止まり、さて契約となったときに、
「契約金500ドルくれなければ、受けられない」
と、強く主張した。ヤンキースのゼネラル・マネージャーのジョージ・ワイスはあきれながらも、希望を入れてやった。月給は90ドルだった。それは、かれプライドの問題だったのだ。それでも、ずんぐりした体型と、送球の正確さに難ありとして、ワイスからは、「せいぜい3Aまでだろ」と評されてはいたが…。

1946年にニューアーク・ベアーズに加わり、その後、ヤンキースの最上位のファームチームに移動した。外野手と捕手としてプレイし、77試合で打率3割1分4厘、15本塁打、59打点をあげたが、守備はまだまだまだ磨かれていなかった。本塁から二塁に送球しようとして、審判を殴ってしまったこともあった。しかし、9月にヤンキースはベラを呼び寄せた。メジャー最初の試合で、ホームランを含む2安打を放った。メジャー・リーガーとして、最高のスタートを切った。

1年目こそ7試合の出場に終わったが、1948年までは捕手のほかに外野手としても出場し、1949年にキャッチャーのレギュラーの座をつかんだ。当初ベラはキャッチャーとして守備面よりも打撃面で輝きを見せ、1949年から10年連続20本塁打以上、その間100打点以上を5度マークするなど、従来のキャッチャー像を大きく変えた。入団後、先輩捕手のビル・ディッキーからすべてを叩きこまれたベラは、常勝ヤンキースの正捕手としてその強肩強打で幾多の勝利に貢献した。



打者としては悪球打ちで有名であり、10年連続20本塁打以上をマーク。通算358本塁打は捕手としてはジョニー・ベンチに抜かれるまでメジャー記録だった。それでいて三振は非常に少なく、一番多かった年でも38個だった。

歴史的な瞬間や個人的な記録もさることながら、ベラのキャリアは語り草になったエピソードで彩られている。とりわけ、1956年のワールドシリーズはふたたびドジャースが相手だったが、ここでもベラは忘れられない歓喜のなかの写真の中心にいた。三振に打ち取り第5戦に決着をつけたドン・ラーソンの腕に、ベラは飛び込んでいる。ワールドシリーズの歴史上、唯一の完全試合(そして唯一のノーヒット・ノーラン)が達成された瞬間だった。

引退後はヤンキースのほか、ニューヨーク・メッツの監督も務めた。監督としてヤンキースで1964年、かの「ミラクル・メッツ」(一塁コーチ)で1973年にワールド・シリーズ出場を果たしている。1972年に、アメリカ野球殿堂入りした。背番号「8」は、ヤンキースの永久欠番になっている。2015年9月22日死去。享年90歳。