MLB史上最高の左腕投手、サンディ・コーファックス(1)


スプリング・キャンプ時、ちょいとしたきっかけで、天才ともいえる才能が突如花開き、MLB史上いかなる大投手もマネのできなかった大活躍をすることになる左腕投手がいた。

短い球歴にもかかわらず、史上最高のサウスポーと折り紙をつけられたその男こそが、ドジャースの「カリフォルニア超特急」といわれたサンディ・コーファックスだ。

Sandy_Koufax

とりわけ、サンディが活躍した1960年代、ドジャースは投手を含めた守りの野球で、黄金時代を築く。その中心となったのが、通算209勝をあげた右のドン・ドライスデールと、「黄金の左腕」とも呼ばれたサンディである。

12シーズン。これが、サンディの実働期間である。しかし、ドジャース在籍時、大きく分けて、前半6年間と後半6年間とでは、まるで別人かのような成績を残した。
1955年、ハイ・スクールより、サンディ獲得に熱心な二人の著名なスカウトにまるめこまれ、得意のバスケット・ボールで名門・シンシナッティ大学に入るも、ものの見事に引き抜かれてしまった。その二人とは、後年ドジャースの副会長になるアル・キャンパニスと、もう一人は、やはりパドレス会長になるというやり手のスカウトだったのだ。

サンディは、コーファックスというフランス系の姓だが、れっきとしたユダヤ教徒である。球界のみならず、世間での人種的偏見は、当時はあまりにも露骨すぎた。反ユダヤ主義が、まかり通っていたのだ。

本名は、ブラウン。あの有名なシェーバーと同じつづりである。後年のことであるが、大リーグの投手なら誰もが夢を見るワールド・シリーズの第1戦、先発候補であるにもかかわらず、いわゆる”安息日”ということで、マウンドに立たないことがあった。

サンディの幼い頃、両親が離婚。会計士であった母親の再婚相手が、当の弁護士であったコーファックス氏。以後、「父親はコーファックス」と、サンディ自身が明言したように、その姓を名乗る。

サンディは、生粋のブルックリン子だった。それだからこそ、件の二人のスカウトは、ハンサムなサンディを使って、女性ファンと、ブルックリンのユダヤ層の開拓を狙ったのだ。もちろん、それだけではない。
「きみの投げる球は、めっぽう速い」
と、当時としては、破格の1万4千ドルにものぼるボーナスを支払って、入団にこぎつけたものだ。19歳のサンディは、
「ボーナス・ベイビー」として、一躍世間の注目を浴びたものだ。

サンディは、マイナー経験なしで、いきなりメジャー・デビューを飾る。しかし、球は速いが荒れ球。年間の奪三振も多いが、それにまけずフォアボールも100個以上というとんでもない有様。ときに、ハッとするピッチングを見せるものの、どうにも続かない。かれは、契約事項にももりこまれていた大学への復学を、真剣に考えはじめたのも、不思議ではない。

ピッチングに開眼する前半6年間は、36勝40敗というさえない数字しか残せなかった、負け星先行のごく平凡な投手の一人でしかなかった。
ところが、7年目のシーズンである1961年、突如18勝をあげ、一躍エースに名乗りを上げた。

その年のスプリング・キャンプ時、エキシビション・ゲームにおもむくバスのなかで、控えの捕手であるノーム・シェリーが、
「なあ、サンディ、なんで速球ばかしなんだ? もっと力を抜いて、カーブとか、チェンジ・アップをなぜ混ぜないんだ? 」
とかなんとか、ちょいとした雑談のなかで言ったらしい。というのも、言った当の本人が、まったく覚えていないというからフシギなもんだ。

しかし、その一言は、
「このままじゃ、いつの日かお払い箱になる」
と、大いに悩んでいたサンディにとっては、衝撃だった。

試行錯誤の結果、速球だけが唯一の武器だったサンディに、まるで天井から落ちてくるようなカーブが加わり、相手打者を面白いように翻弄することになる。速球で空振り三振、魔球ともいえるカーブで見逃しの三振。

あのダイナミックなハイ・キック投法の際に、握りは丸見え。それでも、打者はまるっきり打てなかった。春のキャンプ時、同僚のキャッチャーのちょっとしたアドバイスで目覚めたサンディの快進撃が、いよいよ始まろうとしていた。
参考;「誇り高き大リーガー」(八木一郎著 講談社刊)