コニー・マック

「球界の大長老」、コニー・マック!

コニー・マックことコーネリアス・マクギリカディは捕手、監督、そしてチーム・オーナーだった。MLB史上最長の監督であり、通算戦績は3,731勝3,948敗。これは、MLB史上最多勝利・敗戦数である。「球界の大長老」と親しまれ、ケタ外れの人気があった。今の野球界では考えられないだろうが、監督としておしゃれなスーツと帽子をかぶって、指揮を執った。


1862年12月22日、マサチューセッツ州ブルックフィールド(現イーストブルックフィール)で生まれた。父マイケル・マクギリカディと母メアリー・マキロップは、どちらもアイルランドからの移民だ。かれらは伝統的に継承するコーネリアスをマックに名づけた。「コニー」はコーネリアスの一般的なニックネームであるため、幼い頃から「コニー・マック」と呼ばれていたこともあって、「コニー・マック」と改名。後年、ツルの首ような細みの体のわりに、身長6フィート2インチでもあったことからか、ニックネームは「The Tall Tactician」。

父は、車大工。南北戦争中歩兵連隊所属だったが、その後遺症などで日常生活がうまくいかない、何かやろうとしても集中できない、仕事に支障をきたすといった風なトラウマになっていたようだ。マックはイーストブルックフィールドで教育を受け、9歳のときに地元の紡績工場で夏に働きはじめ、家族を養っていた。14歳で中学2年生を終えた後、学校を辞めた。店員をし、農場で働き、そして近くの町の靴工場の生産ラインで働いたりもした。

が、その一方で、マックは優れたキャプテンシーをもった野球選手でもあった。1879年、タウンチームのイーストブルックフィールドの地元の選手と野球や、その前身のゲームでプレイした。チームメイトより数年若いが、優秀な捕手であり、事実上のキャプテンでもあった。

1886年、ワシントンD.C.にナショナルズ(現球団とは別)が設立された際、イースタンリーグのハートフォード球団からナショナルズに入団。5年目の1890年、かれはほかの選手とともにプレイヤーズ・リーグのバッファロー・バイソンズへ。残念ながら、マックは打力のある選手ではなかったが、なかなかいい捕手だったようだ。1886年から1896年の11シーズンで、724試合で5本塁打と265打点で、.244を記録。しかし、かれの本領はというと、そんな数字でははかれないリーダーとしての素質だった。

そのプレイヤーズ・リーグ解散後の1891年から1896年まで、パイレーツに在籍、1894年以降はパイレーツの選手兼任監督となり、1896年まで試合に出場していたが、その後は監督に専念するようになった。

白き象、かれの生涯の住処となるフィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)は、1893年に発足。この白き象というニックネームは、生涯の好敵手・マグローがつけたものだった。1905年のワールドシリーズで対戦し、かれの犬猿の仲、バン・ジョンソン率いる新興ア・リーグのアスレチックスのことを「白い象のような意味のない存在(「無用の長物」という意味)」とさげすんだことにちなんで、自嘲をこめてマスコットとした。

1901年パイレーツの選手兼監督であったコニー・マックを初代監督として迎え、ここから1950年まで監督として、後半はまたオーナーとして球団を支えることになる。それはまた、大リーグ史上変化の激しい歴史を刻んだチームでもあった。ある年頂点に立ったかと思えば、その翌年はどん底に転落するといった具合だった。

名将コニー・マックはかつて、
「1回や2回の優勝で真のチャンピオンとはいえない。連続3リーグ制覇しなければいけない」
といったことがある。そのアスレチックスの第一次黄金期、1910年〜14年は、ナップ・ラジョイや、エディ・コリンズ、フランク“ホームラン”ベイカーなどの10万ドルの内野陣ともいわれ、ルーブ・ワッデルやチーフ・ベンダーなど、一騎当千の選手ひしめくチームであった。1910年からの5年間で4度のリーグ優勝。3度のワールド・シリーズを制覇する大リーグ最強のチームとなった。それと同時に、こうもいった。
「ピッチングは、試合の75%をも占める」

第二次黄金時代、とりわけ1929〜1934年、とりわけ31年までの3年間というものは313勝をあげ、リーグ3連覇をまたしてもやってのけた。ミッキー・カクレーン、アル・シモンズといった巨砲、レフティ・グローブをはじめとした好投手がひしめきあっていた。1925年から1933年はリーグ優勝3回、ワールド・シリーズ制覇2回を達成した。優勝をしなくても2位4回、3位を2回と強力チームをつくった。しかし前回(第一次黄金期)同様年棒の高いスター選手を放出し、球団維持のための時代に入った。以後、87歳で退任する1950年まで二度と4位以上に入るチームはつくれなかった。1937年、アメリカ野球殿堂入り。1934年日本来訪、俗にいうベーブ・ルース凱旋の時の監督として来日している。

老マックについては、エピソードが数え切れないほどある。まずは、ルー・ブリッシー投手からはじめよう。かれは、傷痍軍人だ。九死に一生を得たが、左のすねの骨が約12センチにわたり粉砕されたのだ。そのかれを再起させ、メジャーのマウンドに立たせ、7年間で44勝させている。

17歳のブリッシーが、はじめてマックをたずねたのは、アスレチックスOBのプレスビテリアン大学野球部コーチの紹介だった。さっそくその投球ぶりをテストした。おどろくことに左からのめくるめく速球に、マックは目を見張り、
「これはレフティ・グローブの再来じゃないか」
と、思わずつぶやいてしまった。すぐにでもほしい左腕だったが、苦労人マックは、
「中退はやめなさい。大学を卒業してから、うちの球団に来なさい。わたしは契約書と、ユニホームをそろえて待っている」
と伝えたのだ。選手の社会人としての将来を配慮したものだった。しかし、アメリカにも戦雲は間近に迫っていた。ブリッシーは学業半ばにして志願兵になった。2年後、送り込まれた先はイタリアのボローニャ、アペニン山脈のふもとだった。そこで、ブリッシーに不幸が起こった。厳寒のなかでの幕営中にドイツ軍のロケット砲弾があびせられ、その最中にブリッシーは負傷した。

「この脚は切断しなくちゃいけない」
と、軍医は診断を下した。ブリッシーは金切り声を上げて、
「切らないでください。わたしは野球選手です。これからアスレチックスで投げるんです」
幸いにして、軍医はちょいと変わり者だったが、野球好きでインディアンズのファンだった。なんとかしてこの若者に念願のマウンドを踏ませてやろうと思った。しかし、ブリッシーのすねは12センチにわたって骨は粉々。歩ける前例はない。まして投手として復帰するなんてむちゃだった。

負傷後のこと、事情を知ったマックから、激励の手紙がとどいた。
「きみに初の監督命令を出す。すみやかに回復せよ。負けじ魂を失うな」
手術、手術の連続だ。小さな骨をつなぎあわせるための手術は、23回にも及んだ。ブリッシーは苦難に耐え、頑張った。

負傷してから3年目のこと、アスレチックスの事務所に松葉杖をついた長身の男があらわれた。
「コニー・マックさんにお伝えください。ルー・ブリッシー、ただいま出頭いたしました」
マックは感無量だったろう。ブリッシーは約束通り準備されていたユニホームに袖をとおしはしたが、投球練習はぎこちないものとなった。安定感をかき、1球ごとに倒れてしまう有様だった。
「もう一度だけ最後の手術をします。来春にあらためて参上します」
といった。マックはかれの肩を叩き、何度もうなずき返した。

翌年の春、ブリッシーはスプリング・キャンプに参加すべく、さっそうと出頭した。松葉杖はもうついていない。聞くと、左足のすねの上に金属板を巻いているという。キャンプがすすむにつれ、動きはぎくしゃくしながらもハードな練習もこなしていった。それでも、まだメジャーでは厳しいと判断したマックは、
「いいか、みんなにきみの勇気のあるところをみせてやるんだ」
と、ファームのサバンナ球団に送り込んだ。23勝5敗、1.91の防御率。ブリッシーは十分に期待に応えた。

翌48年開幕試合、敵地・ボストンでレッドソックスとのダブルヘッダーの第2試合に、ブリッシーは登板することになっていた。メジャー初登板だ。名誉の負傷、それにもかかわらず不死身のカムバックをみせたことは、新聞・ラジオでよく知られていた。つめかけた観客は、ただ祈るような気持ちでブリッシーの一挙手一投足に注目した。

試合開始まもなく、史上有数の大打者、テッド・ウィリアムズとの対戦となった。そのウイリアムズも復員軍人だ。なんともまずい結果になった。投手返しの猛ライナーが左足を直撃したのだ。ブリッシーはマウンドで転倒。はねた打球がフェンスまでとどいたというからすさまじい球威だったのだ。ウィリアムズはもちろん両チームの選手たちが総出で飛び出してきた。すると、ブリッシーは、
「ウィリアムズさん、あなたをプルヒッターだとばかり思っていました」
と、くったくのない笑顔で言葉を投げかけた。ウィリアムズも苦笑するしかない。打球は金属板の正面からあたったので、ショックで擦りむいた程度だった。ブリッシーは立ちあがり、続投し、3−2で勝利投手となった。そのデビューの年に14勝、翌年は16勝だった。ウィリアムズがもらした言葉が忘れられない。
「あいつはじつに素晴らしいことをやった」

つい長くなってしまった。マックの人情味あふれるエピソードは、また次の機会にでも…

参考;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)