ケーシー・ステンゲル

ケーシー・ステンゲル

ステンゲルは、25年もの間、監督をつとめ、とりわけヤンキースではそうそうたる成果を上げた。監督就任初年度の1949年から53年まで、史上空前ともいえるワールドシリーズ5連覇を成し遂げた。

専売特許であるプラトーニング(※ 注1)などの戦術が功を奏したこと。また、ヨギ・ベラやミッキー・マントルなどの強打者、エメリーボール(※ 注2)を駆使したホワイティー・フォードという優秀な投手らを効果的に使ったことや、また当時はまだ軽視されていたリリーフ投手を上手く起用することで、この偉業を達成できたともいえる。ステンゲルは就任当初、
「このチームは、私が指揮したどのチームよりも問題が少ない」
と述べている。ヤンキースにおける12年間の監督生活のうち、リーグ優勝10度、ワールドシリーズ制覇7度というすごすぎる実績を残した。

さて、そのプラートニングだが、あのディマジオさえ先発から外されたことがあった。以後、二人は冷戦状態。が、ステンゲル逝去の報を伝えられたとき、
「かれは持ち駒をどう動かすべきかを知っていた。自軍の選手を知り尽くしていた」
と、涙ながらに語ったそうだ。

チャールズ・ディロン・ステンゲル(Charles Dillon “Casey” Stengel)。”Casey(ケーシー)”とは、生まれ故郷ミズーリ州カンザスシティ (K.C.)から来ている。同市はよくK.C.と略される。ひどいふるさと訛りは終生変わらず、おまけにしわがれ声なのでよけいに聞きづらかった。ヤンキースをひきいて来日した際、英語に堪能な記者たちもなにをいっているのかわからない。ベラのいうところによると、
「おれにも、ボスの英語はよくわからない」
といったとか。同じミズーリ州出身なのに…。また、かれの野球の歴史・戦術に関する一連の語録は”Stengelese”(ステンゲル語録)といわれ、その鋭い機知と皮肉なコメントから”The Old Professor”(老教授)とも呼ばれた。そうそうその来日どき、現上皇さま、清宮皇太子殿下とも握手している写真がのこっている。

ステンゲルは料理人の父ジェニー・ジョーダンと、保険のセールスマンをしていた母ルイスの間に生まれた。学生時代は投手をしており、野球のほかにフットボール、バスケットボールの選手でもあった。母親のすすめもあって、歯科医をめざし、学校にもかよった。が、かれは左利きだ。それもあってか、
「歯科医が使う医療機器は、みんな右利き用にできている。これがしゃくにさわって仕方がない」
とかで、左利きが珍重される野球選手になったという。

1908年にマイナーのカンカキー球団と投手として契約。5年のマイナー暮らしの後、1912年にはメジャーリーグにデビューし、ブルックリン・ドジャースをはじめとするナショナル・リーグのいくつかのチームで外野手として活躍した。ほぼ一線級だった。通算1277試合、通算打率0.284だった。

それとはべつに、かれは終生お金には困らなかったという。うらましい限りだ。すでにマイナーの選手のころから、株を売買してことごとくもうけていたらしい。おまけに、夫人が莫大な財産を相続した。こんな話がある。1938年、ボストン・ビーズ監督時代、ロクな選手はいない、球団は金欠。それで、かれは自分の金4万3千ドルを建て替えてやったというのだ。かれの年俸は、わずか1万5千ドルにすぎなかったというのに。

引退後、ブルックリン・ドジャース、ボストン・ブレーブスと監督を歴任。1944年にマイナーのミルウォーキー・ブルワーズ、カンザスシティ・ブルース、46年にオークランド・オークスの監督に就任、48年にはパシフィック・コーストリーグで優勝を果たした。当時新監督をさがしていたヤンキースがその評判を聞きつけ、1949年に監督招聘に動いた。当時ニューヨークのマスコミには、ステンゲルの採用を疑問視する向きもあったようだ。

それもそのはず、マイナー選手時代からクラウン(道化師)ともあだ名されていたのだ。ある試合中、かれの姿が突然消えてしまった。外野の定位置の傍らにマンホールがあり、そこにもぐりこんだのだ。ほかの連中は試合に気を取られ、だれも気がつかない。やがて打球がセンターにあがると、かれは脱兎のごとくそのマンホールから抜け出し、この打球を好捕した。
「あのときは、監督がキチガイのように怒ったね」
と、後年ステンゲルは語ったものだ。以後監督になっても、道化師に徹した。
「おれは監督というより、宣伝マンさ」
とばかりに、バカ騒ぎばかりやった。

かれの愛嬌のある表情とは裏腹に、厳格な監督で聞こえ、”監督とは絶対なり”を浸透させた。サインを無視してホームランを打って、意気揚々と引き揚げてきた選手に罰金25ドルを宣告したというエピソードもある。また、
「遠征先のホテルのバーで飲んで、とぐろを巻くのをゆるさない」
とばかりに、禁酒令をも出したこともある。その後続けて、
「なぜなら、ホテルのバーはおれが酒を飲む場所だからだ」
といったらしい。これで、憎まれないのがステンデルらしいところだ。

が、しかしだ。しばしば自軍の選手の名前をおぼえていなかったともいう。たとえば、審判に選手の交替を通告したり、記者との談話においても、
「あいつ、こいつ」
といっていたらしい。それも複数人数出てくるともういけない。聞いている連中にはさっぱりわからない。それも選手になると、問題が大きくなる。ある選手などは、あまりの腹だたしさで、飼い犬に「ステンゲル」と命名してどなりつけていたらしい。

そんなステンゲルだが、1960年にピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズで敗れた責任により、ヤンキース監督をポイッと捨てられたのだ。まさしく使い捨てヤンキースのお家芸が、ここで出た。この時に、そのときの理由が70歳という高齢と聞き、
『私が70歳だから解任か、わかった。次はそんなマネは二度としない』
という捨て台詞らしからぬコメントを残している。

1962年からは、新設球団ニューヨーク・メッツの初代監督に就任。しかし、エクスパンション・ドラフトで、他球団のプロテクトを外れた選手を寄せ集めたチームには、往年の神通力は通じなかった。就任1年目になんと120敗(40勝120敗)のワースト・レコードを更新したのを皮切りに、毎年100敗以上を喫する最下位の常連だ。本人も、
『メッツの試合よりひどいのは、メッツのダブルヘッダーだけ』、
とか、
「こんな負け方が、世の中にあったのか」
と、嘆く有様だった。毎年今年で最後と新聞に載るほどであったが、解任はされなかった。ニューヨークのファンは「弱いメッツ」を愛していたのである。監督4年目の1965年8月に、友人宅で飲酒した際に転倒して骨折入院、そのまま辞任。

1975年、85歳でステンゲルはその波乱万丈の生涯を閉じた。1966年にアメリカ野球殿堂入りを果たしており、ステンゲルの監督時代につけていた背番号「37」は監督を退任した1965年にメッツで、1970年にヤンキースでともに永久欠番に指定されており、MLB史上初の2チームでの永久欠番表彰者となった。

※ 注1)日本でいうところのプラトーン・システム、日本だけでの別名。相手投手の左右に合わせて、右打ちと左打ちの複数のオーダーを用意すること。
※ 注2)フォードの場合、ベルトのバックルの芯棒を尖らせ、これでボールを傷つけていた。これは、投手の禁止事項に明記されている。