レフティ・グローブ

「史上最高の左投手」、レフティ・グローブ!

17年間で、通算成績は300勝141敗、防御率3.06、2266奪三振。戦績は立派、見事な数字だ。もはや出てこないであろうシーズン30勝投手でもある。それに、先発はもちろんのこと、救援をもこなした。現今のセーブ規則をあてはめれば、相当のセーブ数になるであろう。投げる速球のあまりの速さから、煙のように見えない「スモークボール」と名づけられた。

大きく体をまわして、思い切り腕を振りおろし、豪速球で打者をねじ伏せるのだ。むろん、コントロールは難しくなる。それにもまして速球に威力があり、打者の手元でホップする伸びのある球というより、最初から最後まで圧倒的なまでに速い剛速球だった。

「恐るべき気質の完全主義者」でもあった。それはかれにとって、「試合は勝つべきもの」であり、負けは、「予想しなかった恥さらし」だった。負けると、ロッカーに頭をぶちつけ、ユニホームを切り裂いたり、一週間も一言も口を利かなかったらしい。怒りを自分に向けているうちはいいが、かれの場合上司や同僚にあたりちらしたりしたものだ。監督でもあり、球界の大長老コニー・マックでさえも、遠慮はしなかった。作戦のまずさから、敗戦したときなんか、
「おまえさんにピーナッツをぶつけてやりたい」
と吠えると、さすがのマックも、
「おれもおまえさんにピーナッツをなげつけてやりたい」
と、本気でやりかえしたという。6回まで無得点におさえていた。ア・リーグ新記録の17連勝をかけてマウンドにあがったのはいいが、左翼手が大飛球の目測を誤り、一塁走者が長駆ホームインしてしまったのだ。レギュラーのシモンズが私用欠場し、新人選手が抜擢されていたのだ。

レフティは、荒れ狂った。ロッカーに体当たりはするわ、ユニホームを引き裂くわ、それを叩きつけ、あげくはジャンプするわで手がつけられない。シモンズ不在でも、ほかにもそうそうたるメンバーがそろっているのに…と、かれはそれが気に入らなかったのだ。

1900年、ミズーリ州ロナコニングに生まれた。父はジョンは炭鉱夫、母はエマ。子供4人で生活は苦しかった。かれも、少年時代から1日50セントの日銭のために炭鉱夫の手伝いをさせられた。とうぜんのごとく家計を助けるのに追われ、野球に親しむ間なんてなかった。かれがはじめてボールを握ったのは、17歳のころだった。しかし、才能はかくされない。やがて、ミッドランドのセミプロ球団に誘われた。当初は、一塁手だった。ところが、中継のときなどおどろくべき速いボールを送球してくる。
「投手より速い球を投げるとは…」
と、すぐに投手転向だ。

1920年 、マーチンスバーグに入団。月給125ドルだった。その同じ年、マイナーのボルチモア・オリオールズ(当時はマイナー球団で、インターナシオナル・リーグ所属)に2000ドルのトレードマネーで買われた。オーナーは、あのベーブ・ルースを発掘し育て上げたジャック・ダンだった。かれのもとで、グローブはみっちり磨きをかけられた。5年で109勝以上の勝ち星を上げ、4回リーグの最多奪三振投手だった。

当時マイナー・リーグどうしのアメリカン・アソシエイションの優勝球団が、リトル・ワールドシリーズをおこなっていた。レフティはそのとき、2000ドルをもらい郷里にすっ飛んで帰り、幼なじみのエセルと結婚した。

1925年、アスレチックスが当時史上最高額となる10万500ドルのトレード・マネーを払って、4月にデビュー。このとき、かれは25歳。遅咲きもいいところだ。が、順風満帆とはいえなかった。制球難や本人の短気な成績も災いし、安定感を欠いたものの、怪我もあって成績は10勝12敗。それでも、リーグ最多の116奪三振。

2年目には13勝13敗、194奪三振、リーグトップの防御率2.51。3年目でやっと20勝投手になれた。1927年から7年連続で20勝を挙げる活躍を見せ、デビューから続けていた最多奪三振の記録は7年連続。1929年からのアスレティックスのリーグ3連覇の期間は、合計で79勝15敗。1930年は28勝5敗、防御率2.54、170奪三振と、あきれるほどの戦績をのこしている。

レフティ最良の年であろう1931年は、31勝4敗。4敗の内訳は、すべて僅差。バックさえしっかりしていたら、35勝0敗となっていても不思議でも何でもない。防御率は2.06、175奪三振と2年連続で投手タイトルを独占。MVPにも。そんなかれだが、わかってはいるけど、すぐにカッとなってしまう性格だ。間を持たせようと、マック監督は、
「いいか、投球する前に10数えるんだ」
と、なんどもいい聞かせたものだ。三塁手のダイクスも苦労人だけに、レフティが熱くなってきたと見るや、ボールをつかんでなかなか渡さない。
「おい、そのやけに白いボールを返せよ」
というと、
「まあ待てや、モーゼス」
「そのくそったれボールを返せよ」
「落ち着けよ、おれはお前の親友のジミーだぜ」
「そのへなちょこボールをかえせよ」
と、こんなやりとりをくりかえしたそうな。そして、やっとダイクスがマウンドに近づくと、レフティはそのボールをひったくるといった調子だ。

また、こんなこともあった。リリーフで出たはいいが、外野手のミスで2点を献上してしまった。
「もうリリーフなんて今夜限りだ。こんなボロ球団のために二度と救援なんかにでるか」
と、グラブをたたきつけた。マック監督は、
「そんな口のきき方をするな」
と、叱りあげると、
「おまえさんに口のきき方まで指図されることはない」
と、うさんくさそうに答えると、さすがのマック監督も頭にきたのか、
「口とはこうきくものだ」
といわんばかりに、かたわらにいた投手に、
「ウォームアップにいけ。おまえがでて本当の投手はこういうものだとみせてやれ」
すると、
「ああいけよ。全投手がウォームアップしなければ追いつくまいよ」
といいはなった。が、ところがだ。攻撃が終わると、グラブを拾ってマウンドにあがり、あげくはその試合の勝利投手になってしまった。

1933年も24勝8敗、防御率3.21で自身5度目の最多勝のタイトルを受賞も、オフにはトレードでレッドソックスへ。懲罰トレードとみた輩も多かったが、マック監督はそんなみみちいっことなんかしやしない。やはり、「峠を越した」と判断したのだろう。現にレッドソックスに移籍してから8年間、20勝をした年は1回しかない。

じつのところ、緊縮財政の方針による放出で、アスレティックス側には12万5000ドルのトレードマネーが支払われた。 その年はふたたびび腕の怪我を負い8勝、1935年には20勝、最優秀防御率2.70で復活。1938年から4年がかりで本拠地フェンウェイパークでは20連勝をマークアップ。最優秀防御率に輝いたシーズンは、アスレチックス時代に5度、レッドソックス時代に4度の計9度。

レッドソックス監督は、大物クローニンが指揮をとっていた。が、なんども一触即発の危機があったようだ。それと、新聞記者をふくめ口うるさいファンとの間もうまくいかなかった。

1941年、41歳で現役引退。 その年、299勝で足踏みしていたが、シーズン近くになってやっとの思いで待望の1勝をあげた。念願の300勝に到達した。すると、どうだ。試合が終わりクラブハウスに戻ると、レフティは満面の笑顔で、よくしゃべり、よくはしゃいだ。これがレフティの真の姿なのかもしれない。引退を決意したとき、はじめて本道にもどったのだろう。1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。

1975年、オハイオ州で死去。