クリスティ・マシューソン

近代野球最高峰の投手、クリスティ・マシューソン

当時のニューヨークの優秀な消防隊にちなんで、「ビッグ・シックス(Big Six)」、という愛称で呼ばれた大投手、クリスティ・マシューソン。

1905年のワールド・シリーズで、マシューソンは、第1、第3、第5試合目に先発し、すべての試合で、完封を果たす。「27イニング無失点、被安打14、与四球1、奪三振18」、この年、かれは伝説的な投手の一人になったのだ。『スクリューボール』を、はじめて実戦投入した投手といわれている。

1880年、ペンシルベニア州に生まれた。プレスビテリアン(長老派)の裕福な家庭で育ち、愛称は“マティ”。母親から日曜日には、登板しないよう約束されていたという。野球以外にもマシューソンは、American checkers(チェスの一種)の名人として有名で、世界チャンピオンと対戦したこともあった。バックニール大学に通い、学級員長をつとめ、フットボールでは、優れたフィールドゴール・キッカーとして、またスター・ピッチャーとして、野球もやった。

まさにスポーツ万能で、学業成績も良いという模範的な学生だったが、1899年に大学を中退。マイナー・リーグのノーフォーク球団と契約。この期間に、スクリューボールを習得したという。1900年、20勝2敗という圧巻の好成績を残した。その7月に、ジャイアンツと1500ドルで契約する。後に、選手経歴の大半を過ごしたジャイアンツだったが、1年目はすんなりとはいかなかった。わずか6試合の登板で、0勝3敗と振るわなかったのだ。

ジャイアンツはいったん、ノーフォークに送り返し、契約金の払い戻しを要求した。ところが、ルール5・ドラフト(※)で、100ドルで、シンシナティ・レッズに拾われたが、その12月15日に、ふたたびジャイアンツとの交換トレード。わずかの期間に、ジャイアンツのユニフォームを着ることになった。(※ MLB規約の第5条に規定。有望な選手が、マイナーで飼い殺し状態になっているのを防ぐために、チャンスを広げるというのが、その目的)

1901年に、マシューソンは防御率・241の好成績で、いきなり20勝を記録。だが、当時のハイニー・スミス監督との確執が表面化、打撃でも高い才能を見せていたこともあり、ファーストもしくは、ショートへのコンバート案が浮上。また、おそろしく神経質で、現役当初は負けるとチームメートから離れて、一人悔し涙をながしていたという。

じつのところ、メジャー・リーグでの自身の成功に、自惚れ、自己中心的な言動で、チーム内での確執も生じていた。ある日、ファンの少年が、マシューソンとあやまって、ほかの選手のサインを求めたさいに、
「君が、マシューソンにサインを求めなかったのは、良いことだ」
と、チームメイトからいわれたこともあった。そんなこんなで、マシューソンは、熱心な誘いを受けていたコニー・マック率いる、フィラデルフィア・アスレチックスへの移籍も考えたともいう。



しかし、翌1902年に、名将ジョン・マグローとの出会いで、投手として大成したばかりか、一人の紳士としても成長し、チーム内での不協和音も一気に解消。ある試合で、ノーアウト満塁のピンチを迎えた時、マウンドに向かってくるマグローに対して、
「落ち着いて! こうやったほうが楽しいんだから」
と叫んで押し戻し、後続を三者三振に討ち取ったものだ。マグローとの師弟関係は強く、二人は同じアパートに住んでいた。その年に20勝をあげ(うち1度目のノーヒット・ノーラン)、主力投手になると、1903年から3年連続で30勝以上と、最多奪三振を記録する離れ業をやってのける。以後ジャイアンツの大エースとして、大車輪の活躍を見せた。

とりわけ1905年は、最多勝、最優秀防御率のタイトルも手にし、投手三冠王になったのである。さらに、この年はワールドシリーズで第1戦、第3戦、第5戦に先発し、3戦で完封勝利を飾る圧巻の投球でジャイアンツに世界一をもたらした。実に6日間で3完封を挙げたことになり、長い歴史を見ても、大舞台でこのときのマシューソンに匹敵する投球を見せた投手はいない。

1908年には、56試合に登板(先発は44試合)し、37勝11敗、防御率1.43、259奪三振という成績を残した。さらにノーヒット・ノーランを2試合記録。シーズン37勝はいまだに抜かれていないメジャー記録である。投球回数は390回2/3であり、与四球は42個。

というのも、マシューソンのピッチングは、9イニングあたり1.6個の与四球と、“針の穴をも通す”と賞された抜群のコントロールを備えていた。そのため、マシューソンが1試合で投げる球数は、80球前後で終わることが多かった。

また、マシューソン自身が“フェードアウェイ”と名付けた、右打者の外角へ逃げ去るスクリューボールを決め球とした。しかしスクリューボールは、投じる時に、腕にかかる負担が大きいため1試合で10球前後投げて、速球と優れたチェンジアップを織り交ぜて試合を支配していった。それに、いまや当たり前のようにおこなわれている投球後に肩や、肘を冷やすアイシングも、かれがノーヒット・ノーランを記録した試合の後、おこなっていたことがはじまりといわれている。

1901年から1914年までの14年間で、13度のシーズン20勝をマークしたマシューソン。1916年シーズン途中にレッズへの移籍が決まり、この年限りで現役は退いたが、その後はレッズの監督を務めている(レッズでは1試合にだけ登板し、1勝挙げている)。



折しも時代は第一次世界大戦を迎えつつあり、マシューソンも1918年には志願してヨーロッパ戦線に出征。化学作戦部隊に属して、毒ガスの使用法とそれに対する防御方訓練を受け、フランスの戦場へと駆り立てられた。一行のなかにはジョージ・シスラーやタイ・カッブもおり、いずれも教官として、毒ガス・火炎放射器部隊へと配属させられた。

ところが、マシューソンは訓練中に毒ガス兵器を浴び、その影響で肺結核を患って除隊後も入退院をくり返した。その当時、軍の訓練で兵士たちを気密室に送り込み、ほとんど警戒なしに毒ガスを放出するという危険なものであった。

終戦後は療養生活を送ることとなったが、療養の甲斐なく、1925年に結核のためニューヨーク州サラナク湖畔の療養所にて45歳で死去した。後年、ともに従軍していたタイ・カッブは、毒ガスの訓練が死に追いやった遠因だろうと、回顧録に記している。長身で知性も兼ね備えた男前のマシューソンの人生の幕切れは、とても儚いものとなった。生まれ故郷のペンシルバニア州では、マシューソンが亡くなった日の一番近い土曜日を、彼のための祝日としている。

奇しくも、召された日はその年のワールドシリーズ第1戦が開催される日で、両チームの選手(セネタースとパイレーツ)は喪章を付けてのプレーとなった。1936年に野球殿堂が設立された際、マシューソンは最初に殿堂入りした5人のうちの一人となった。また、古巣ジャイアンツでも、マシューソン現役時には背番号がなかったため、当時のフランチャイズであったニューヨークの二文字『NY』として、当時の上司にして監督であったジョン・マグローとともに永久欠番として顕彰されている。

参考: 『大リーグ不滅の名勝負』(ベースボール・マガジン社);(※ 01)
『誇り高き大リーガー』(講談社)