ロジャース・ホーンスビー(2)

もっとも偉大な右打者!(2)



1925年のシーズン途中にはブランチ・リッキーの後任としてカージナルスの監督となり、兼任選手としてプレーすることになった。むろん、野球に精通していたことはいうまでもない。すると、翌年、個人成績こそ、打率.317、11HR、93打点と前年までの成績を大きく落としたが、チームは初のリーグ優勝を果たすことになった。

アメリカン・リーグのチャンピオン、ルース、ゲーリッグ擁するヤンキースと対戦し、第7戦までもつれながら、ルースの二盗ミスもあり、4勝3敗でカージナルスをチーム史上初のワールドチャンピオンに導いた。

その第7戦だ。7回、カージナルスが3-2でリードも、二死満塁。人差し指の豆がつぶれ、ヘインズが投げれなくなった。急きょ、ホーンスビーは前日完投した老雄、グローバー・クリーブランド・アレキサンダーを引っ張り出した。ラゼリーを三振に打ち取り、ピンチを脱出。あまりにもドラマチックなリリーフだった。そして最終回、2人は仕留めたものの、ルースを歩かせた。が、なにを思ったか、ルースが二盗を敢行。タッチアウトで、試合終了となった。

そのオフ、ホーンスビーはカージナルスに年5万ドルの3年契約を求めた。株に手を出し、大金をすっていたという事情もあった。人気者だし、3年契約をしてやってもよかったのだが、当時のオーナーだったサム・ブリードンは受けつけない。

自動車ディーラーだったブリードンは、カージナルスが経営危機に貧したとき、ブランチ・リッキーが口説き落とした人物だったのだが、ホーンスビーにとっては、気まずい関係にあったのだ。2人は感情的に対立した。

後日談だが、そんな株にちなんでの話だが、ホーンスビーは監督就任時に前任者のリッキーから球団株を1株45ドルで1000株を購入しており、この株も元値の1ドル45ドルで引き取りたいという球団に対し、1ドル100ドルという主張を崩さなかったホーンスビーはコミッショナーを巻き込んでの騒動となり、結果的にホーンスビーの主張が受け入れられるという一悶着もあったのである。

さても12月20日、ニューヨーク・ジャイアンツの”フォーダム・フラッシュ”ことフランキー・フリッシュとトレードされた。このトレードは、俗に「世紀の大トレード」といわれた。一方、フリッシュは、10年後あの有名なガスハウス・ギャングをひきいて、ワールドシリーズに出場したのだ。

テキサス州ウインタースの酪農家の家に生まれたホーンスビー。ロジャースの名は、母親の旧姓だ。学生時代に野球の天才的な才能を発揮し、18歳になった1914年にはマイナーのヒューゴー球団でプレーをはじめた。

が、残念ながらショートを守っていたホーンスビーは、あきらかに力不足だった。この年は113試合に出場し、打率.232しか記録していない。翌1915年も、119試合の出場で打率.277と結果は残せないでいた。

そのシーズン終盤、19歳の時にマイナーのウェスタン・アソシエーションリーグに参加していたデニソンという球団から、セントルイス・カージナルスに入団。ファーム体制の充実をはかっていたカージナルスのスカウトの目に引っかかったのである。たいした成績も残していない遊撃手・ホーンスビーに目をつけたそのスカウトは、
「この若者が将来活躍しなかったら、契約金を私の年棒から引いてくれ」
といいきり、破格の値でセントルイス・カージナルスへ引き上げた。遊撃手が欲しかったのだ。契約金500ドル。この年の後半に、大リーグデビュー。18試合に出場するも、平凡な戦績だった。

それよりも、念願の遊撃手が見つかったと聞いた当時の監督ミラー・ハギンス(後、ヤンキース監督)は、出頭してきたホーンスビーをみて驚いた。身長は182cmはあるのだが、体重は61キロしかない。なんともみすぼらしい体格だったのだ。シーズンも終了時、かれはホーンスビーを呼んで、
「きみにオフ・シーズンの宿題を出す。来年2月に出頭するときまで、1ポンドでもいいから太ってこい。大リーガーとして残りたいのなら、それでは無理だ」
翌春、出頭してくると、体重が75キロに増えていたのだ。聞くと、テキサスに帰ってから、三食に分厚いステーキ、アイスクリーム、チーズ、ポテト、ミルクなどを食い、飲みまくったというのだ。ハギンス監督をびっくりさせたものの、ホーンスビーの増量作戦はなおも続き、90キロに達し、以後この線を維持した。

遊撃手として入団したが、内野はどこでもこなせたようで、2年目の1916年には一塁から三塁まで内野の4つのポジションすべてをこなし、1917年には遊撃手として当時のメジャー記録に並ぶ1試合14補殺という守備記録もある。

その1916年には、レギュラーとして139試合に出場。打率.313に、15本の三塁打をマークするなど、結果はすぐに現れたのである。翌1917年は145試合に出場し、リーグ2位となる打率.327を記録し、大打者としての階段を昇りはじめたのである。

1920年、セカンドに定着したホーンスビーは149試合に出場し、打率.370、9HR、50打点という成績を残し、首位打者と打点王のタイトルを獲得した。安打数(218本)、2塁打数(44本)はいずれもリーグトップの記録である。この年からホーンスビーは6年連続首位打者に輝くなど破竹の勢いを見せるが、この年はベーブ・ルースがシーズン54HRを記録するなど新しい時代がはじまろうとしていた矢先でもあった。

この急激な打率の上昇は、ライグリーボールと呼ばれた「飛ぶボール」の使用が要因のひとつといわれている。このボールに対応するためにホーンスビーは、フリースイング打法をいち早く取り入れた。

前にも書いたように、ボックスの一番後ろに立ち、踏み込んで完璧なレベルスイングで、投手めがけて打ち返す。本塁打を打つなどとは、考えて打席に立ったことはないらしい。人並み外れた高い集中力が高打率を生んだといえる。



1942年にアメリカ野球殿堂入りした後、1952年にオーナーのビル・ベックに呼び戻されるかたちで、17年ぶりにセントルイス・ブラウンズの監督となり、現場に復帰。1953年までシンシナティ・レッズの監督に就任。

監督業から退いた後もホーンスビーはメジャーリーグに関わり続け、1958年から2年間コーチとしてシカゴ・カブスに在籍、1962年には設立したてのニューヨーク・メッツのコーチとして招聘され、若い選手への指導した。

1963年 、皮肉なことに、健康的な生活を送っていたはずのホーンスビーは白内障手術の最中に心臓発作を起こし、シカゴで死去。66歳の生涯を終えた。いまもテキサス州ホーンスビー・ベンドの墓に眠っている。

セントルイス・カージナルスでは背番号が無い時代の名選手として、欠番扱いとなっている。

参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)