ミッキー・マントル

「史上最高のスイッチ・ヒッター」、ミッキー・マントル!

ヤンキースの黄金時代を支えた、華やかなスーパースターであったマントル。驚異的な飛距離のホームランでもファンを魅了し、「史上最高のスイッチ・ヒッター」といわれた。


オクラホマのド田舎生まれのマントル(Mickey C. Mantle)。メジャー・デビューは、1951年、19歳の時である。96試合に出場し、13本塁打を放ち、大器の片鱗を見せつけた。

が、この年のワールド・シリーズがマントルの運命を変えてしまう。ジャイアンツのルーキー、ウィリー・メイズのセンターフライを追うディマジオのバックアップの際に、スプリンクラーの溝に足を引っかけて転倒。膝の靭帯を断裂して手術を受け、以後の試合を欠場。この故障は、マントルの選手生活に常につきまとうのである。同僚のエルストン・ハワードは、
「ケガがなければ、史上最高の打者になっていただろう。年間70本も夢じゃなかった」

18年のキャリアで10度の3割、9度の30本塁打以上、9度の90打点以上をマーク。加えて、3度のシーズンMVPに輝いている。が、その選手生活は、骨髄炎や、骨折、腰部の腫瘍や軟骨組織の断裂、病魔….など、度重なる故障との戦いの日々でもあった。

ともあれ、19歳で華々しくデビューを飾ったマントル。監督のケーシー・ステンゲルは一目惚れだ。
「これくらい強打で、俊足なスィッチ・ヒッターは、いまだかつて見たことがない」

翌52年には打率.311、23本塁打を放ち、ディマジオの後継者として、一躍ニューヨークのスターの座を獲得した。55年は34本塁打で初の本塁打王に輝き、56年は、打率.353、52本塁打、130打点で三冠王、シーズンMVPも獲得。

マントルの真骨頂は、何といっても飛距離の出る大本塁打であろう。53年に放った場外ホーマーは、実に171.8メートルを記録したという。

61年は、マントルとM・M砲を形成していたロジャー・マリスが61本塁打を放ち、『ベーブ・ルース』の年間60本塁打の記録を更新した年であったが、実はマントルも絶好調で、打率.317、54本塁打、128打点をマークしている。病気でシーズン終盤に離脱を余儀なくされたが、それがなければ、あるいはマントルが、それ以上の本塁打を放っていたかもしれない。

マントルはまた、ワールドシリーズでの猛打でも、その名を馳せている。12度にわたるシリーズ出場で、チームを7度の世界一に導き、通算で18本塁打、40打点を叩き出し、いずれもいまだメジャー記録である。

1931年、オクラホマ州スパビナウにて炭鉱夫の父チャールズ・エルヴィン・マントル、母ラヴェルの間に生まれる。父、通称・マットは大男で、セミプロの投手でもあり、この年3連覇を果たしたフィラデルフィア・アスレチックスの捕手ミッキー・カクレーンの大ファンであったことから息子に同じ名前をつけた。

“Mickey”は”Michael”の愛称であることがほとんどだが、マントルの場合はミッキーが本名である。じつはカクレーンの本名はゴードンであったが父は知らなかった。

8歳で野球をはじめ、父からスイッチ・ヒッターとしての英才教育を施された。祖父は左投げ、父は右投げだった。が、マントルは本来は右打ちなので、右で打ちたい。草野球などで、父たちが来ていないと見定めると、右投手なのに右打席に入ったりした。ところが、右打席で素振りをはじめると、
「ヘイッ、ミッキー、なぜ左から打たないんだ? 」
と、どこからか怒号が飛んでくるのだ。

当時スイッチ・ヒッターは珍しく、メジャー・リーグでも”フォーダム・フラッシュ”こと、フランキー・フリッシュぐらいしかいなかった。この父の先見の明により、後にヤンキースに入団した時の監督ケーシー・ステンゲルが方針としたプラトーン・システムでも常時出場できる素地がつくられた。子供時代はホィズ・キッズというチームでプレーし、ポジションは遊撃手だった。

1951年、ヤンキースは中心打者のジョー・ディマジオが兵役から帰還後の成績が振るわず全盛期の力を取り戻せないことで、その後継者として強力なスラッガーであり、スタープレーヤーになりうる人材を探していた。

GMのジョージ・ワイスは、ブルックリン・ドジャースのスカウトでジャッキー・ロビンソンの入団に功績のあったトム・グリーンウェイドを迎え入れ、全米のスカウト網を駆使してポスト・ディマジオを探し求めた。

グリーンウェイドは1949年春にオクラホマ州コマースのセミプロチームでプレーしていたマントルの情報を聞きつけて自ら足を運び、高校の卒業式の夜に出場したナイトゲームを視察。

小柄な体躯からは想像もつかない火の出るような打球を連発するのを目の当たりにし、即契約金1,100ドル、マイナー・リーグ参加報酬400ドルで契約を結んだ。ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったこともなかったという。

当時マイナーの最下級であるD級のカンザス・オクラホマ・ミズーリ・リーグのインディペンデンスでプレイ。1950年にC級のウエスタン・アソシエーションのジョプリンに昇格し、打率.383・26本塁打・136打点の好成績を残した。

1951年にアリゾナのメジャーキャンプに招集され、監督のステンゲルから外野手へのコンバートを命じられる。マイナー時代に89試合で47失策を記録した遊撃手よりも外野手であれば、俊足を生かした広い守備範囲と肩の強さが発揮できるとの判断によるものだった。開幕メジャー入りを果たし、4月17日のボストン・レッドソックスとの開幕戦で、3番・右翼でスタメン出場してメジャー・デビュー。当時の背番号は、「6」だった。



デビュー当時の大きな特徴は、球界随一といわれる俊足であった。一塁までの到達タイムは3秒1で当時のメジャーリーガーのなかでも最高といわれるほどで、しばしばドラッグバントで内野安打を稼いだりした。

やがてステンゲル監督に「フィノメナル」(驚異的)、といわれたことから「フィノム」と呼ばれるようになる。が、デビュー当初はメジャーの壁にぶつかり、また「ディマジオの後継者」としてのプレッシャーに押しつぶされてスランプに陥り、極度にいらいらし、ときには同僚や先輩たちにあたりちらし、バットをたたきつけたり、ヘルメットをなげつけたりと大暴れをやったものだ。

そのころだった、三振をくらってベンチに戻ってくるや、足で冷水機を蹴飛ばして倒してしまった。それを見たステンゲルは、
「いいキックだ、坊や。だが、おまえを三振に仕留めたのは冷水機じゃないよ」
そして、ついにステンゲルは、
「坊や、おまえは気張りすぎるんだ。マイナーのカンザスシティ球団に行ってこい。少々のんびりして、肩の荷をおろして打ってこい」
と、ついに降格となってしまった。

マイナーでの最初の試合でいきなり得意のドラッグバントで内野安打を決めて意気揚々とベンチに戻ると、待っていたのは監督ジョージ・セルカークからの叱責であった。
「いいか、お前はバントをするためにここへ来たんじゃない。チームはお前に選球眼と、自信を取り戻させるためにここへ送り込んだんだ。どでかい当たりを、俺の前で見せてみろ」
しかし、マイナーでも22打席ノーヒットと大スランプを味わい、一時は野球に対する情熱を失いかけた。父に相談の電話をすると、オクラホマから150マイルもの距離を駆けつけた。
「お前にそれほど根性が無いのなら、荷物をまとめてオクラホマに帰れ。大声で泣き喚かないことも、根性のいることなんだよ」
とさとし、
「おまえはわしのエゴの犠牲になったと思っているかもしれない。だが、わたしはながいこと鉱山で働いてきて、一番いい給料が週給75ドルだった。それ以上もらったことはない。わしは、同じような生活をさせたくなかった」
若死にの家系のなかで、父・マットもこのとき不治の病におかされていた。おそらく余命いくばくもないと覚っていたのだろう。

その後のマントルは人が変わった。極度にいらいらすることもなく、ジョーク好きで明朗な若者になった。打率.361・11本塁打・50打点を記録し、不死鳥のようによみがえり、8月下旬にメジャーに再昇格した。

再昇格後に背番号を「7」に変更し、以後引退まで身に着けた。シーズン通算で打率.267・13本塁打・65打点を記録し、チームのリーグ3連覇に貢献。病床に臥せっていた父・マットは、最期までラジオにしがみついて一喜一憂していたといわれる。翌年、39歳の若さで死去した。
「残念だ。おやじはおれがドでかいことをやりとげるのを、実際は見なかったんだ」
と、マントルはなんども悔しがったといわれる。

一族の男が皆早死をしているのを気にして、自分も必ず若くして死ぬ…、と決めてかかり、マントルは体のケアもろくにせず、親友のホワイティ・フォードと夜の街で不摂生の限りをつくした。結局64歳まで生きたマントルは、晩年、若い頃の放蕩三昧を相当悔やんでいたという。



さて、マントルのホームランは、その飛距離が大きく話題になった。その本人が、
「私の野球人生のなかで最も強烈な打球」
と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムで対アスレチックス戦でのカーブをとらえたもので、ヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。監督のケーシー・ステンゲルは、
「その天性のパワーがあれば、全力で振らなくてもコンパクトなスイングをすれば確実性もあがる」
と、幾度となく説得したが、マントルは耳を貸さなかったという。

またよく知られているのは、1953年4月11日にワシントンのグリフィス・スタジアムでの対セネタース戦で、5回表にセネタース先発の左腕チャック・スタブスから打った打球は、左中間のフェンスまで119m(391フィート)、そこからスタンド最後部のフェンスまで21m(69フィート)、その最後部フェンスの高さが15m(50フィート)で、その最後部のフェンスの上に取りつけてあった1.5m(5フィート)のフットボールの上の部分に当たって見えなくなったという超特大の場外ホームランであった。

ヤンキースの広報担当、レッド・パターソン(後にドジャース副会長)が巻き尺を持って、左中間場外のボールが飛んでいったあたりに走って行き、ボールを持った少年に落下地点を聞き、巻き尺で測ったところ、171.8m(565フィート)であったという。これ以降、数々の大打者が現われているが、171.8mもの特大ホームランを測定したものはなく、いまだに、これを超えるものは出ていない。

これ以後に特大本塁打は、巻き尺で測れるくらいの大ホームランとして、「テープメジャー・ショット」と呼ばれるようになった。1960年にタイガー・スタジアムでかっ飛ばした本塁打は、195m(640フィート)あったとされて、1995年度版ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載されている。

選手生活晩年は、重ねた故障の影響で、まともに走ることすらままならず、守備位置はセンターから一塁へ。1968年、現役を引退。74年に殿堂入りを果たし、95年、ガンのため他界。ヤンキース一筋の野球人生だった。番号「7」は、いうまでもなくヤンキースの永久欠番である。

参考図書;『大リーグ黄金の30年』(ジョゼフ・ライクラー著 週刊ベースボール編集部訳)、「誇り高き大リーガー」八木一郎著 講談社刊。