ジョージ・シスラー

仏のシスラー、鬼のシスラー!

20世紀最初の30年間で、最高のファースト。イチローが、かれの持つ年間最多安打の記録を塗り変えるまで忘れ去られていた。通称”ゴージャス・ジョージ”ことジョージ・シスラーこそ、その男だ。

「かれのモーションには、詩があった。最高の賞賛の言葉として、かれはパーフェクト・プレーヤーだった。人には素晴らしいことでも、かれにとっては十分ではないのだ」
と、「ジョージ・シスラー論」(P・プローグ記者)の導入部分だ。

ちなみに1941年、ジョー・ディマジオが破るまで41試合連続安打という記録を保持。2004年、イチローに破られるまで年間257安打の最多安打記録を保持していた。数々の記録は塗り変えられてしまったが、かれの記録は決して色あせることはない。1939年には、野球殿堂入りを果たしている。

シスラーは15年の現役生活のなかで、4割以上を2回、年間200本安打以上を6回達成している。そんなシスラーだが、引退さえも考えた1923年。鋭利な異物を目に突き刺し、副鼻腔炎をも悪化させ、映像が重複して見えるといった視神経が侵される病気にかかり1年を棒に振っている。このとき、自分の球歴に終止符をうつべきだと、なんども考えたという。復帰後も、視力は完全に治ることはなかったが、ヒットを量産し続けた。

1893年3月24日、オハイオ州マンチェスター郊外のニミシラに生まれた。父は炭鉱の監督者。叔父はアクロン市長。高校時代から、スポーツは万能。あちこちの大学から奨学金付きで誘われたが、ミシガン州立大学に入学し野球をすることに決めた。

ここ州立大での野球部のコーチが、あの名運営者ぶりを発揮したブランチ・リッキーだった。後年になるが、かれの右腕としてブルックリン・ドジャースでスカウトを担当。数多いニグロ・リーガーからジャッキー・ロビンソンを見いだし、リッキーに推薦。メジャー・リーグの歴史において、最大の案件の一翼をになった。

今日は投手、明日は外野手とばかりに、リッキーにしごかれた。投げては通算13勝1敗、打っても打率.404とすごかった。学業の方もまた、優秀な成績で卒業した1915年、恩師・リッキーが一足先にセントルイス・ブラウンズの監督になっており、それを追うかのように、シスラーもブラウンズ入り。



「打者に専念したら・・・」
と、何人もの人から忠告されもしたが、シスラーは投手にこだわった。というのも、大投手ウォルター・ジョンソンが大好きだったし、尊敬もしていた。が、そんなシスラーに転機がおとずれる。全盛期に入っていたあのウォルター・ジョンソンと投げあうことになろうとは…。ジョンソンは、かれのあこがれの投手でもあったのだ。それも、入団と同時に、大リーグの公式試合に登板させられたのだ。いかにかれがブラウンズ首脳陣に買われていたかを物語るものだ。結果はというと、シスラーが2-1で投げ勝った。

ずっと後年、「野球をやっていて、最大のスリルは何だった?」
と訊かれると、決まってこう答えていた。
「大リーグに入ってすぐに登板して、ジョンソンさんと投げあって勝ったことです」

その後もあいかわらず、投手、外野手として使われていたが、ある日のこと、リッキー監督からファースト・ミットを手渡された。
「今日から一塁手だ。もうピッチングのことは忘れろ」
あこがれのジョンソンと投げあい、しかも勝ったことでふんぎりはついていたのだろう、素直に聞き入れた。”ゴーャス・ジョージ”ともあだ名されたシスラーの、これが世紀の名一塁手誕生のきっかけとなった。

守備での頭脳的プレーと、ちょいとした神業を紹介しよう。対レッドソックス戦、無死一、三塁。次打者が安打性の当たりをレフトに飛ばしたが、前進して好捕。すぐにシスラーに返球し、ダブルプレー成立。ところが、シスラーはボールをうけるや、なんのためらいもなく捕手にむかって返球した。タッチ・アップした三塁走者は、あえなく憤死。7-3-2という珍しいトリプル・プレーになった。

無走者で、シスラーの守る一塁へ平凡なゴロが飛んできた。投手が一塁カバーに入るケースだ。かれは球を拾って、塁上へゆっくりトスした。ところが、高かった。また、投手が一塁へ駆け込むには手の届かない範囲にあると判断するや、かれは脱兎のごとく突進して、自分がトスした球を自分が取って、一塁ベースを踏んだのだ。これぞ、神業。

1920年、シスラーにとって最高の年になった。全154試合の全イニング出場。ア・リーグ最多の257安打を放ち、うち二塁打49、三塁打18、本塁打19、塁打数ではルースについで2位だった。得点137、打点122、そして盗塁は42回成功。

1922年、打率.420、盗塁数51で首位打者、盗塁王に加えて初のMVP獲得。41試合連続安打の記録も達成。1923年は目の病気で1年間欠場し、1924年からは選手兼任監督となる。1928年、ワシントン・セネターズ(現ミネソタ・ツインズ)、同年ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)に移籍。1930年、37歳のとき現役引退。それでもなお3割を打っていた。



シスラーの人柄については、
「ふだんはクワイエット・スポークスマンであり、球場ではフェロシャス・ヒッターだった」
と、よくいわれた。日本でいうところの仏のシスラー、鬼のシスラーってことか。それとともに、
「パーフェクト・プレーヤーでもあった」
ともいわれる。シスラーが自分に課した標準はあまりにも高かったのだ。1922年、ア・リーグ記録の打率.420を打ったときでさえも、
「私は、ほんとうにいい打撃だとは考えていない」
と洩らしていたそうだ。

プレーヤーとしてだけではなく、シスラーはフロントとして、指導者としても優れた眼力と、指導力を見せつけた。いまさらながら、年間最多安打だけで語るような人物ではない。そうそう、シスラーは子どもたちにも恵まれた。3人兄弟だが、長男・ジョージ・ジュニアはマイナー・リーグ会長、次男・ディックは打撃理論の大家であると同時にレッズの監督を務め、三男・デービッドは投手でア・ナ両リーグで投げた。