ロジャース・ホーンスビー(1)

もっとも偉大な右打者!(1)



ファンからはインドの王様という意味と、名前のロジャースが似ていることから「ラージャ」と呼ばれた。首位打者7回、本塁打王2回、打点王4回、MVP1回。“メジャーリーグ史上最高の右打者”、“メジャーリーグ史上最高のセカンド”の2つの称号を得て、1937年に23年間のメジャー生活にピリオドをうった。

1915年カージナルスでデビューし、翌年にレギュラーを獲得、当初は内野ならどこでも守っていたが、1920年に2塁手に定着。それも、超一流のプレーヤーだった。とりわけ、一、二塁を抜けそうなゴロの処理は神業だったようだ。しかも、打率.370で初の首位打者を獲得すると、そのうえ1925年まで6年連続首位打者を獲得。

1922年に打率.401、1924年に打率.424、1925年に打率.403と、3度の4割は“球聖タイ・カッブ”とならぶメジャー記録であり、通算打率.358はカッブの.366に次ぐメジャー歴代2位の記録で、右打者ということを考慮すれば10歳年長のカッブに勝るとも劣らない数字だ。

とりわけ、1924年に記録した打率.424はシーズン最高打率として、今も燦然と輝くメジャー記録である。

また1922年に、打率.401、42本塁打152打点、1925年に打率.403、39本塁打、143打点で、2度3冠王に輝き、2度の3冠王は“打撃の神様テッド・ウイリアムズ”とただ2人だけだ。ちなみに、カップは1度だけ。

ホーンスビーは相手投手が右投げだろうと左投げだろうと、打席に入ると、バッターボックスの一番後ろのベースから遠い角に立って構え、そこから大股で内側へ大きく踏み込みながら、完璧なレベルスイングで強烈なラインドライブを右に左に打ち分けた。

走塁でのスピードも速かったため、多くの打球が単打で終わらず、二塁打や三塁打へ。徐々に選球眼もよくなり、1920年代前半には、大きく踏み込む打撃スタイルのために最も苦手にしていた「内角高め」の投球に対し、ホーンスビーがのけぞる姿勢を見せると、審判がボールとコール。
「ホーンスビーが振らないから、ボール」
ということ。審判団も、ことホーンスビーにかんしては、
「ミスター・ホーンスビー」、といっていたぐらい尊敬の目でみていた。退場処分は1918年に2回あるだけで、それ以後は審判の判定に文句をつけることもほとんどどしなくなっていた。

でも、やはり性格は問題多しで、ズケズケものをいうために、たびたびフロントと衝突し、選手間でも味方は少なかったらしい。それに、お世辞や、外交辞令なんていえない非社交的な男だったのだ。それは、”ミスター・プラント(ぶっきらぼう)”という形容する人もいたのだ。このためにどれだけ損をしたかわからない。

もう一つ、「ハードボイルド・ホーンスビー」というあだ名もある。いわゆるかた焼きのホーンスビーだ。とっつきにくい、融通がきかないという意味らしい。そのためか、ジャイアンツ、ブレーブス、カブス、またカージナルス、そしてブラウンズと球団を転々とトレードされた。

後年、ニューヨーク・ジャイアンツにトレードされたとき、遊撃手・ファレルと二遊間をまかされていた。が、そのファレルと食事をしているとき、知り合いの新聞記者が通りがかり、
「いよう、ホーンスビー、ことしのジャイアンツは優勝できるかね」
と、おあいそをいったが、ホーンスビーは、
「まあ、優勝は遊撃手しだいだね。ファレルじゃ荷が重い」
といってのけたもんだ。

だが、こと野球に対しては徹底的に厳格な姿勢で取り組み、
「タバコ、酒はよくない」
と、ひとこと聞いただけで、手を出さないのはもちろん、
「目によくない」
といって、読書なども目が悪くなるという理由で手を出さなかった(シーズンオフには読書をしたらしいが)。映画も見ることがなかったのも、目への影響を考えてのものである。



また、こんなエピソードも…。ある試合で捕手が、ホーンスビーをかく乱するために、かれの大好きな「ステーキ」の話を持ちかけた。
「女房がいい牛肉を見つけたんだ」
「あ、そう」
「ストライク・ワン」
「うちの女房はステーキをつくるのがうまいんだ」
「それはいいね」
「ストライク・ツー」
「今度、わが家でごちそうするよ」
「ストライク・スリー」となるはずだったが、「カーン」と音を立てて、
ボールは左翼席へ飛び込んだ。ベースを一周してきたホーンスビーは、
「いつ、ごちそうしてくれる?」
食い道楽はかわらずとも、唯一とも言える趣味は競馬であり、相当のお金をつぎ込んでいたとのこと。出馬表も新聞で読むでなく、誰かしらに読んでもらっていたらしい。競馬仲間からお金関連で告訴されることもあるなど、意外な一面も見せている。

参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)