オレさまが、ベーブ・ルースだ!(4)

ヤンキースに移籍後、優勝と、観客動員をもたらしたことで慢心したルースは、年を追うごとに、深酒、女遊びなど私生活での無軌道さが目立つようになっていった。ある記者がルースの華やかなナイトライフを取材しようと、ルースのルーム・メイトに様子を聞いたところ、そのルーム・メイトは、
「オレにはルースのことは分からないよ。だってオレは彼じゃなくて、彼のスーツケースのルーム・メイトなんだから」
と答えたそうな。


さて、ワールド・シリーズの、その伝統の意義を失うことを避けるために、プロ野球機構はワールド・シリーズ出場選手がシーズン・オフにエキシビジョンゲームに出場することを禁じた。が、とりわけルースは、このルールに反発して、いつもどおりほかの2名のチームメートをともって、楽しくて、大きく儲かる地方巡業を挙行していった。

球界の全権を掌握しているランディス・コミッショナーは、怒り心頭。
「あのデカい猿は、自分を何様だと思ってるんだ?」
無茶ぶりの裁判官として、つとに有名だったランディスだけに余計腹が立ったのだろう。そのかれは小柄で白髪であったが、見てくれもよく、なにより威厳を感じさせたものだった。

ついには、反抗的であったルースには、1922年のシーズン開幕から39日間の出場停止処分を課したのだ。

そのルースがやっと出場停止処分から解放され、チームに合流すると、ヤンキース上層部は、かれをチーム初のキャプテンに指名した。だが、その5日後、審判の判定に対する抗議により退場。さらにはヤジる観客のスタンドへよじ登ったことで、事態は悪化。キャプテンの地位は剥奪され、あげくは審判の抗議により3度も出場停止処分を受けるなど、ルースの攻撃的な性格が際立つこととなった。

それにくわえて、放蕩な生活は、グラウンド上のプレイにも影響を与えはじめ、打撃面では打率、出塁率、長打率ともに急降下。本塁打数も35本と、野手となってから初めてタイトル獲得を逸した。不調はワールド・シリーズになっても改善せず、ヤンキースは4敗1引き分けでジャイアンツにふたたび惨敗した。

そして、1923年、新本拠地・ヤンキー・スタジアムがお披露目された。7万4千人ものが見守るオープニング・ゲームでは、ルースはヤンキー・スタジアム第1号ホームランも放った。ヤンキースのチーム史上初のワールド・チャンピオンにも、大きく貢献。また、ヤンキー・スタジアムは、この頃から「ルースが建てた家」と呼ばれるようにもなった。

しかしながらルースは、プロ入り後初めての挫折に見舞われたのだ。ヤンキース移籍から5年経った1925年だった。春季キャンプにあらわれた30歳のルースは、ブクブクにふくれ上がっていた。動きも緩慢で、さらに過度の浪費癖から、なんと金にも困っていたともいう。

そんな状態のルースであったが、春季キャンプでは打率4割を記録し、きっちりと結果を残した。今シーズンも例年以上の活躍が期待されたが、やはり不摂生の影響から、ある日ルースは突然倒れてしまう。
「その瞬間、ベーブ・ルースは頭を打ち、死んでしまった」
という誤報が巡り巡って、世間を騒がすほどだった。

それでも、ルースはタフだった。腸内に発見された腫瘍の摘出手術後、7週間の入院生活を経て、6月1日にはシーズン初めての試合に出場。それは、退院からたった一週間後の試合であった。

チームも下位に低迷したこともあって、ルースは打席でハギンス監督からのサインを無視したり、集合時間に遅刻したり、遠征先での門限破るはと、やりたい放題。
「チビ、お前さんがもう50ポンド重ければ、ぶっ飛ばしてやりたい」
と、ハギンス監督に毒づいてもいた。酒と、女も止めなかった。遠征先のホテルを抜け出しては、自由時間を大いに満喫していた。ジョー・デューガンによると、
「ベーブは、昼も夜も関係無く、女と、酒に浸っていた」
という発言は、あまりにも有名だ。

さすがのルースも、プレーに影響が出はじめた。そんななか、二晩続けて行方をくらまし、またも出場停止処分に。自分の非を認めて謝れば試合に出す、といわれても、
「二度とヤンキースでプレーしない」
と、かたくなに拒絶した。

そんな一向に態度をあらためる様子のないルースに堪忍袋の緒を切らしたハギンスは、ついに無期限の出場停止と、罰金5000ドルをいい渡した。ルースは、
「自分の無能さを、オレのせいにするな」
と、激昂。前例のなかった重いペナルティーに強く反発し、
「自分を取るか、ハギンスを取るか」
と、ラパート・オーナーと、エド・バーロウGMに直談判までおこなった。が、二人は、
「ハギンスが望む限り、いつまでもこのチームの監督だ」
と、ハギンスを全面的に支持した。

たしかに、ハギンスはヤンキース監督に就任した当初、采配や、選手管理の面でしばしば優柔不断さが見受けられた。選手に規律を強く求めながらも、ルースらヴェテラン、中堅選手に対しては好成績を残している限り、ルール違反を見逃していた。そんなことで、人心掌握能力を疑問視されることもあった。

が、球界の帝王ともいうべき存在だったルースに、毅然とした態度を貫いたことで、その評価は一変した。ルースはのちに、
「ハギンスは、私を規則に従わせることのできた唯一の人物だった」
と語っている。

じつのところ、ハギンスが監督になった年も悪かった。第一次世界大戦のまっただ中だったのだ。選手は兵役についたり、転職したりして、出入りが激しかった。しかし、ヤリクリ名人のハギンスは峠を越した選手たちをなだめ、すかし、おだてて実力以上のものを出させていた。

そんなとき、ルパート・オーナーの大奮発でベーブ・ルースを獲得したのだ。ハギンスの進言だった。しかもハギンズの脳裏には投手・ベーブはなくて、打者・ベーブだけがあった。

何にしても、もうこんな状況に、これ以上ルースは耐えられなくなり、ハギンス監督が選手全員の前で謝罪するように要求すると、素直に応じた。このように、最悪のシーズンを経験したルースだった。結局、この年のヤンキースは大きく負け越し、ルースも自身最低の成績(打率.290、ホームラン25本)で、シーズンを終えることになった。

信じられないほどの不振、そしてわずかによぎった死への不安から、ルースは一歩前へ進む決意し、著名なトレーナーであるアーティー・マクガヴァンの門を叩いたのだ。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。