オレさまが、ベーブ・ルースだ! (6)

ルースの背番号は、「3」。ヤンキースは、日常的に背番号制を導入したはじめての球団となった。当時の背番号は打順をあらわし、日頃3番を打っていたため、「3」があたえられた。

そして、その1929年は、ルースの三年契約の最後の年にもあたっていた。1927年に契約した給料は、年棒7万ドルという額に達していた。

そんなところへ、驚愕のニュースがルースに飛び込んできたのは、同年の1月だった。妻・ヘレンが焼死したというのだ。マサチューセッツ州の歯科医・キンダー博士の家から出火した。改築のさいの配線のまずさが、原因だったようだ。二人は、2年間ほど同棲生活をしていた。周囲は、ヘレンがルースの妻であることも知らず、二人を受け入れていた。

しかし、そのヘレンの死で、ルースとクレアの結婚の道がひらかれたのも、皮肉なことだった。二人は知り合ってから6年になり、最近3年間はとくに親密な間柄になっていた。同年の春、春のキャンプが終わると、二人は結婚した。

クレアは、聡明で理知的、高い教養を身に着けていた。折りに触れては口やかましい女になって、ルースを悩ましたが、それでいて寛大だった。母のような愛し方で、ルースを愛していたのだ。

クレアが母親役なら、父親役のそれはハギンス監督だった。徹底して押さえつけはしたが、家庭的な魅力でルースをひきつけた。が、この年、チームが負け込むにつれて、ハギンスは意気消沈、それにつれて体の方も絶望的な病にとりつかれつつあった。

ハギンスは目の下の頬の上にみにくいできものをこしらえていたが、イライラしながらそれをつついていた。病気のためか、3試合に欠場し、ついには入院した。そのできものは、丹毒の兆候だったのだ。容態はにわかにすすみ、かれは死んだ。ボストンで試合中だったヤンキースの面々はあわておどろき、黙祷を捧げるのがやっとだった。ルースは、試合後のインタビューで、
「いうことはあまりありません。わたしが彼にいかに多くを負うているかもみなさんが知っていることだ」
といって、泣き出した。

しかしながら、そんな身近な者の死、再婚、それに年齢による体力の低下といったものはあまり意に返さず、のんきもんのルースに影響をあたえることはなかったようだ。

ルースは、絶好調だった。本年から、1931年にかけて3年連続でホームラン王を獲得した。1930年シーズンの途中には、1921年以来初めてマウンドに上がり、完投勝利を挙げている(それまでもオープン試合などでマウンドに上がることはたびたびあった)。が、ヤンキースは、4年振りにワールドシリーズ進出をのがした。

残り試合は、コーチのフレッチャーが指揮を取った。が、監督を続けることには、拒否した。ルースは違った。監督に指名されるされることを切望していたのだ。しかし、バローは、ショーキーを指名した。かれは投手生命が終わったあと、ハギンスのもとでコーチをやり、マイナーで監督をつとめていた。ルースは不満だったが、ショーキーが好きだったし、いやいやながらもこの事実を受け入れた。

そのためか、ルースは今回あたらしい契約を結ぶときは、多額の要求をつきつけることに決めた。10万ドルほしいと、ラパートに伝えた。ラパートは拒否、ルースもかれの提示した7万5千ドルを即座に却下。はじめての契約拒否選手となった。

そんな時、キャンプ地での友人ばかりの雑談のなかで、
「契約にサインしなくても、試合に出るつもりなのかね? 」
「もちろん、出るつもりだよ」
「考えみろよ。きみがその試合で脚を折ったとする。ラパートはきみの要求する8万5千ドル、いや8万ドルだって払うと思うかね」
と、話題になった。ニューヨークに戻ったルースは、早速ラパートと契約交渉に入った。そして、ルースは二年契約で8万ドルの条件でサインした。

ちなみに昨年度のヤンキースの選手たちの給料と比較してみると、まずはルースが7万ドルだった。しかし、その次の高給取りはペノックで1万2千ドル、ゲーリックにいたっては8千ドルだったのだ。8万ドルのショックは、すさまじいものがある。

「昨年のわたしの成績は、大統領よりよかったぜ…」
という、このお決まりのエピソードについて、当時の人たちは大統領より高いお金を取るということは、まったく理解できなかったのだ。たしかに、フーバー大統領は、1931年当時7万ドルをもらっていた。

この1930年も、ルースはよく働き、4年連続ホームラン王となった。ゲーリックは、4年連続ニ位となった。が、監督のショーキーはそうはいかなかった。

投手陣は弱体のうえ、何人かの選手ともトラブルを起こしていた。結局のところ、ヤンキースは精彩なく3位に終わった。

そのころ、シカゴ・カブスがジョー・マッカーシーを解雇したという情報がはいった。バローは、かれこそが統率力のある監督であると考えていた。打診すると、マッカーシーは乗り気まんまん。すぐさまニューヨークのバローと、ラパートを訪れ、サインした。

そして、ショーキーはマッカーシーを迎えたところで、解雇された。
「汚いやり方だった」
と、ショーキーは、のちに語っている。それは、ルースも同じだったが、ただルースの場合は、自分が指名されるものと考えていたのだ。それを伝えると、バローは笑ったが、ラパートは、
「プレーイング・マネージャーには、反対なのだ」
と、真面目に説得した。ルースは、スピーカーも、カップも、ホーンスビーもそうじゃないかと反論した。そんなこともあって、ルースははじめから、マッカーシーに反発を感じていた。

さることながら、マッカーシーは明確なヴィジョンを持っていた。だが、そこにルースは含まれていなかった。しかし、ルースの華やかで、超絶ともいえる打棒は理解していた。ルースをのぞく、ゲーリック、クームス、そして最古参のペノックなどの主力選手とは、ひじょうにうまくいった。やがて、まったく問題なくヤンキースは、マッカーシーのヤンキースになった。

かれはルースだけは放っておいたのだが、ルースはかれなりに規則にしたがい一生懸命にプレーして、その年もすばらしいシーズンをおくった。あわや4割もと可能性さえあった打率、そしてホームラン王。ただ、ついにゲーリックの長年の努力が実ったのか、ルースとおなじ46本ずつでホームラン王をわけあった。

1931年のこと。ルースと、ラパートは新契約でまたもや、ゴタゴタしはじめた。ルース8万ドルの契約がきれた。ルースは二年契約の8万ドルにこだわった。が、2年前の強力な実績も、根拠もなかった。世間も失業者があふれ、大不況はいまだ続いていた。2ヶ月もの間合意はならなかったが、セント・ピータースバーグのホテルにて、ようやく決着した。ラパートはワッテンバーグ大佐の立ち会いのもと、一年契約の7万5千ドルで同意した。

翌1932年には、ヤンキースはマッカーシー監督のもとで107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、48本塁打、137打点を記録。が、アスレチックスのジミー・フォックスの58本に遠くおよばず、ホームラン王の地位を失ってしまった。

さても、ルースは気分が乗ったときにだけ出場することにしていたのだが、回が遅くなると引っ込んでしまい、若手に代わりをさせることが多くなってきた。

それに、シーズン終盤9月に、脚と、盲腸炎との入院で、二度の長期リタイアもあった。それもあってか、ワールシリーズ10日前になって、やっと打撃練習をはじめたくらいだ。ルースは、38歳になっていた。

さて、このワールドシリーズでは、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。ギャビー・ハートネット率いる最盛期のシカゴ・カブスと対戦。

じつのところ、このワールドシリーズはドタバタ劇の最たるものだった。ベンチ間では、つねに激しいヤジがとびかっていた。両軍、いまにもベンチを飛び出し、殴りかからんとする様子が、一目瞭然だった。

それというのも、ヤンキースでの仲間だったケーニッグがこの夏、カブスに入り、その好打でチーム優勝に大きく貢献したにもかかわらず、シリーズ配当金をみんなの半分しかやらないことに発していたのだ。

さて、予告ホームランだが、打席に立ったルースは外野フェンスを指さし、その後に放った打球は、実際にも指さした方向へ一直線に飛びこんでいったのだ。ボールは490フィートも飛んだのでは、ともいわれている。

長年にわたって論争の的となってきたのは、ほんとうにルースはスタンドを指さしたのか? という素朴な疑問である。
「あれは予告ホームランじゃなかった。一歩譲ったとしても、すくなくとも’あそこへ打つぞ’と、指さして打ったものではなかった」
と、対戦相手の投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、その後ルースの映画化への出演依頼も拒否したものだ。それに反して、ルースは最後まで、
「ルートが投球する前に、オレは右中間スタンドを指さしてホームランを予告した」
といい続けた。

ヤンキース2勝でむかえたシカゴでの第3戦。4?4での5回表、ルースが打席に立つと、レモンなど多くのものが投げつけられ、激しいヤジをもあびせられた。

ルースはなんら気にする風もなく、バットを構えた。第1球は真ん中へ速球、ルースは1本の指をつきだした。第2球は高めの速球を投げ込まれたが、ニヤリとわらいながら、2本の指を天に向かってつきさした。ストライク・ツーだ。

すると、なんの前ぶれもなく、ルースは右中間のフエンスを大きく指差したのだ。そして、次に打ったルースの打球は、まさしく指さした右中間のスタンドに打ち込まれたのだ。この一撃で、ヤンキースが勝ち越し、続くゲーリックにもホームランがうまれ、試合は7?5でヤンキースの勝利となった。カブスは、あわれにも意気消沈。このルースの予告ホームランで、ヤンキースが4勝0敗で、一方的に試合をものにしたのだ。千両役者・ルースの本領発揮といったところだ。

なお、このホームランは、ルースがワールドシリーズで放った最後のヒットとなった。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。