オレさまが、ベーブ・ルースだ ! (3)

ルースが徐々に強打者としての片リンを見せはじめ、打率.325、安打数40のうち11本の長打を放っている。が、それにもまして、その1917年にも、大活躍を見せ、24勝13敗の成績だった。それでも、ホワイトソックスの快進撃に及ばず、3シーズン連続のプレーオフ進出はならなかったが…

投手として投げない日は、野手としても出場する機会が増えた1918年 には、ルースは11本塁打を放ち、生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得。一方で、投手としても20登板して13勝7敗と、ともに素晴らしい成績だった。

そんなこんなルース、常時出場するほうが価値があることは誰の目にも明らかだった。あのタイ・カッブは、
「ルースは投手だったから、あの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それもヤツは若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど、ヤツは投手だったから誰も気にしなかった。だからヤツは自分なりの打ち方をいろいろ試すことが出来て、打者転向の頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」
と話したものだ。

1919年には、ついに投手よりも外野手での出場が増え、29本塁打を放ち、2年連続本塁打王を獲得したものの、チームは振るわず優勝はまたも逃してしまった。しかし、打率.322、114打点のこの成績。しかしながら、この猛打についてのウワサは、またたく間に広がって、ルース見たさに大観衆がつめかけたものだ。

とはいっても、ルースの絶大な集客力にもかかわらず、レッドソックスの経営状態ははなはだ芳しくなかった。

当時のレッドソックスは資金繰りの悪さから、選手をトレードして、オーナーの本職である劇場興業への穴埋めにされていたのだ。チームの主力打者がそだつと、ヤンキースなどに金銭トレードに出され、それにともなってルースの打撃の比重が高くなったきたというわけだ。

そのくせ、そのヤンキースはといえば、万年Bクラス、めぼしい選手は皆無、観客は少なく、ヤンキースという名称さえ変転とし、ボロ球団同然だった。あげくはジャイアンツのホーム球場ポロ・クラウンズに間借りさえしていたのだ。

さて、ルースは当時随一のサウスポーとして、1916,1918年のワールドシリーズで投手として、29回2/3イニング連続無失点の当時メジャー記録をつくり、剛腕ぶりをみせつけてもいる。大リーグ通算94勝46敗、20勝以上を2回含む4度の2ケタ勝利を挙げ、1916年には最優秀防御率のタイトルを獲得しており、この年に挙げたシーズン9完封は左投手としての完封数の記録として1978年に破られるまで、半世紀以上に渡る大リーグ記録だったのだ。

そしてそのオフ、ついに衝撃の出来事が起こったのだ。ルースが当時としては破格の12万5000ドルで、ヤンキースに金銭トレードで放出された。1920年1月3日のことだった。

レッドソックスのオーナー、ハリー・フレージーは最高の選手を集めたいとの欲望から、戦時中も高額の年俸を支払っていた。しかし、チームが1919年のワールド・シリーズに敗れ、みずからも劇場興行で失敗したことから、倒産を避けるために年末までには資金の入手が必要だった。かれの唯一の資金源は選手であって、ルースほか有力選手を当時万年Bクラスチームであったヤンキースに譲渡してしまったのだ。

さてさて、そのヤンキースだが、1910年代半ばに、オーナーであるファレルと、デブリーは、不仲となっており、加えてフェデラル・リーグ創設で選手の年俸が高騰し、資金不足になったため、1915年1月に、ファレルと、デブリーはジャイアンツのジョン・マグロー監督兼共同オーナーの仲介で、野球好きのビール王ジェイコブ・ルパートと、キューバ復興に一役買って財を成したティリンガースト・ローメデュー・ヒューストンにヤンキースを売却した。

ルパートは老舗・ルパート醸造所の財産相続人であって、御曹司でもあった。その名前を冠したルパート、またニッカボッカーほかビールは、各球場でもてはやされ、よく売れた。また、タマリーホール(民主党の派閥組織)ともかねてから関係があり、8年間連邦議員を務めて、潤沢な資金力もあった。

それに、10代でニューヨークの州兵に入隊し、1890年には大佐に昇進するほどだった。が、そのかれはといえば、その趣味である骨董・美術品収集だけでなく、ドイツなまりのある孤独グセのある一風変わった人物でもあった。酒造工場のあるマンハッタンのヨークビル近くのどでかい屋敷に、母親と一緒でもなく一人で住んでいた。

そのルパートは後に、ヤンキース買収については、
「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」
と述懐している。だが、そんなことよりも、ラパートにはひっぱくした事情があったのだ。禁酒法だ。ビールが売れなくなるのだ。そこで、ラパートは、想像もしていなかった球団経営という大きなカケにうってでたってわけだ。

そんなわけで、30万ドル以上の負債の肩代わりに、ルースはヤンキースにトレードされたのだ。レッドソックスにとっては、むろんルースの移籍が痛手で、その後2004年にワールド・シリーズで優勝するまでは、負け続きの暗い道を歩むことになった。この「失敗トレード」のことを、のちにスポーツ・メディアは、「バンビーノの呪い」と揶揄し、世間に広まったものだ。

この時期におけるもう一つ、ヤンキースへの重要な新加入者は、弁護士資格を持った小男のミラー・ハギンス監督と、GMのエド・バローである。ハギンスは、1919年に、ヒューストンがヨーロッパに出征中にルパートによって雇われたのだが、これをきっかけに、両オーナーの間の溝が深まり、ルパートはヒューストンの持分を買い取り、オーナー職から追い出すこととなったのだ。

バローは、1920年のシーズン終了後GMに就任した。かれは1918年からレッドソックスの監督をしていた人物である。バローは、GM兼球団代表をその後25年間務め、その期間のチームの成功に貢献した。ヤンキースにとっては、これこそまさに収穫だったのだ。そのルースの入籍後、15シーズンを通してワールド・シリーズで4タイトルを勝ち取った。

むろんルースはレギュラーの外野手となり、その成功の中心的プレーヤーとなった。それに、ここヤンキースでは投手、野手の二刀流をほぼ止め、野手に専念した。そのシーズンが開幕すると、バッター有利のポロ・グラウンズになじんで、まもなく本塁打の自己記録を更新。対戦相手の投手を威圧し、かつてないほど素晴らしい打撃成績を打ち立て、54本塁打137打点の二冠王に輝いたものだ。

この54本塁打というのは異常な数値であって、それも2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。翌年も、59本塁打171打点と、2年連続で二冠王に輝いた。 この年のルースが達成した177得点、457塁打は大リーグ記録となっている。

あまりにも常識離れしたルースの量産ペース、それをまたホームラン見たさに客が押し寄せ、そんな野球人気を異常的なほど大衆的なものとした。もちろん、ほんのつけたし程度だったホームランの価値を飛躍的に向上させたものだ。

そんなルースだったが、1916年当時のすらりとしたアスリートらしい姿から、プロ入団後からかわらない、まさしく食い意地のはった食欲で、現在でもよく知られる通りの丸々と太った体型に変化していた。このような酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、2ケタ盗塁を5回記録するなど、走者としても、野手としても問題はなかった。タイ・カップも後年、ルースのことを、
「太っているわりには、走るのが速かった」
と述べているほどだ。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。