その後、ルースが12年間過ごすことになったそのセント・メアリ少年工業高校で、父のようにしたうことになったのが、教官を務めていたローマ・カトリック神父のブラザー・マシアス・バウトラーだった。

彼こそが、最初にルースに野球の仕方を教えてくれた生涯の恩師なのだ。マシアスが亡くなった後、ルースは、
「自分の人生で最も悲しかった出来事が、二つある。一つは、母を失ったこと。もう一つは、マシアス先生を失ったことだ」
と語っていた。

ルースは寝たきりの母が亡くなった時には悲しんだものの、父とは疎遠であり、亡くなった時には、それほど悲しんだ様子はなかったという。もともと酒場で年中働きづめだった父とは顔を合わせることもすくなく、7歳の時からセント・メアリでじつの父よりも長い期間をマシアスと共に過ごしたルースにとっては、マシアスこそが“育ての父”であったのだ。

マシアス神父は、アメリカと、ヨーロッパの不幸な少年たちの救援事業に奔走している、カトリック教団ザヴィエル派の教団員であった。身長6フィート6インチ。体重250ポンドで、大柄で筋肉質の身体。厳格ではあったが、心優しい神父でもあった。

セント・メアリは、野球に力をいれていた。チーム数も多く、ユニフォームまでそろっていた。そのなかでもマシアス神父は、特筆な野球選手であって、とりわけ優秀な指導者だった。それが、ベーブとキャッチボールをしているうちに、野球選手としての才能があることを見抜いた。毎日時間を決め、広い校庭の片スミで、ノックをし、手や、足の使い方を教えた。

野球をはじめた時、守った最初のポジションは捕手だった。ルースは左利きであったものだから、右利き用のミットを投げる方の左手にはめて、返球の際はミットをはずし、捕った左手で投げていたという。

それが、ある試合で、ルースは味方の投手がこてんぱんに打たれてしまったので、途中からおかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。するとマシアス神父から、
「そんなにおかしいのなら、きみが投手をしてみせろ」
といわれ、やむを得ず投手として登板してみると、その試合で好投。そのため、次の試合からは投手をすることが多くなった。

体も大きく、カンもいいルースは、ずば抜けた才能を発揮しはじめていた。8、9歳の頃には12歳のチームと、12歳の時には16歳のチームと、16歳の時には学校のなかで最も強いチームと試合をしたのだった。こと野球の関して、もうすでにルースは、ほかの選手たちとは違って、はるか先をいっていたのだ。

マシアス神父は、セント・メアリの最後の2シーズンの間、ルースがなるべく野球ができるように心がけてくれた。しかしかれは、遊びの時間と、仕事時間の区別をよく心得ていた。ルースは球場に行くために、授業をサボることはできなかったし、裁縫工場でやるべき仕事を後まわしにすることはなかった。そして、21歳になれば、セント・メアリを出ていかなければならなかった。

仕立屋は、ルースの本職であったためか、ミシンの腕前は確かだった。後年だが、プロ入り後もユニフォームの修繕は自分でやっており、ときにはチームメイトたちのユニフォームの修繕を買って出ることもあった。

そのころまでにはセント・メアリに、神童がいるという評判があふれかえっていた。ついには、1913年の18歳のときに、ルースは、マイナーのチームに入団。ルースの素晴らしいピッチングに、一目惚れしたのが「ボルチモア・オリオールズ(当時はマイナー・リーグ)」のオーナー、ジャック・ダンだった。しかしながら、ときおり放つどでかい一発なんて、見向きもしなかったようだ。その当時、オリオールズでは、選手たちを、最強メジャー球団の一つ、「ボストン・レッドソックス」に送るべく訓練をしていたようだ。

ダンは、その日たった30分ほどルースの練習風景を見ただけで、即座に年給600ドルの契約を結んだ。
「君のことは、よく知っている。どうだい、オリオールズと契約するつもりはないかい? 」
「ぼくに給料をくれるというんですか…」
と、ルースは声を弾ませた。
「そうだよ」
と、ダンはいった。
「まず、年俸600ドルからはじめようじゃないか」
ルースは、ダンが話していることが、まったく理解できなかった。
「そうだよベーブ、600ドルからはじめようじゃないか。君が立派な成績をのこしたら、もっと沢山かせげるよ」

15歳のころに母親を結核で亡くしており、父親とは疎遠になっていたことから、ルースの法的な保護者のサインは、ダンが引き受けることになった。投手として契約を結び、フロリダ州の春季キャンプに連れていき、早熟な才能と、子供っぽい人となりから、「ダンのベビー」と呼ばれはじめたのも、このころだ。

というのも、ルースは初めて汽車にのって都会にでてきて、豪華な食事をおかわりしたり、エレベータに乗ったりしてはしゃいでいたものだ。それを見て、まわりの人たちは、
「まったくお前さんというのは、ほんとうに赤んぼう(ベーブ)だよ!」
と笑ったものだった。

シーズンがはじまるや、オリオールズはリーグ首位を独走し、7月4日時点で47勝22敗の好成績。だが、チームの財政状態があまり芳しくなかったのも事実。その結果、ダンは金銭トレードでスター選手を放出。ルースとの契約権は、ほかの2選手のものとともにボストン・レッドソックスのオーナー、ジョゼフ・ランニンに対して、2万ドルから3万5千ドルで譲渡した。ルースにとって、寝耳の水とは、このことだった。

「セント・メアリー少年工業高校」卒業後たった4ヶ月、全寮制で、共同生活に慣れていたウブなルースは世間におっぽり出されたのだ。それは、まさしくルースの大リーグへのデビューとなった。

7月11日には、初登板初勝利を記録した。その年の4試合は投手としてマウンドに登ったが、当時のレッドソックスには先発投手陣の左腕の駒は豊富だったためか、登板機会が与えらえず、マイナーへ降格。

しかし、翌シーズン、ルースは先発投手の地位を固め、ルースをはじめとする投手の踏ん張りもあって、アメリカン・リーグを制した。18勝8敗、防御率2.44の好成績で、バッティングでも打率0.315、ホームランも4本。また、4勝1敗でワールド・シリーズを制す。が、監督が右投手好みであったことから、登板機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロの成績だった。これが、まだ高校をでたばかりの成績なのか、人々はは末おそろしささえ感じたようだ。まるで、大リーグに何年もいるかのようだ、とうわさした。

実生活でも、進展があった。その年の10月17日、ボストンで知り合ったコーヒー店「ラウンダース」のウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚。ルース、19歳。ヘレンは15歳になったばかりだった。それから約5年間、ルースは投手として大活躍をし、レッドソックスを3度の優勝に導くなどして、中心的プレーヤーとなった。

1916年には、防御率はア・リーグ最高の1.75。23勝12敗9完封勝利であり、これはレッドソックスの左腕投手の記録を塗り替えるものだった。またも、投手陣の踏ん張りで、軽量打線のレッドソックスはふたたびワール・ドシリーズに進出したものだ。ルースはといえば、14イニング無失点の成績で、ブルックリン・ロビンス(現ロサンゼルス・ドジャース)を4勝1敗で破り、ワールドチャンピオンにもなった。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。