オレさまが、ベーブ・ルースだ ! (1)


「かれは野球そのものだ。かれに対して投げるときは、伝説に向かって投げることだ」
と、ある選手がいった。大統領より高給を取った男、アメリカ200年の歴史で最高の人気を博した男。不世出の大選手、ベーブ・ルースは、若くして伝説となった。大リーグで22シーズンをプレーし、放った714本のホームランは、1974年までメジャー最多記録を保持していた。

通算本塁打714本は不滅の記録といわれたが、ハンク・アーロン 、バリー・ボンズに破られた。が、通算長打率.690と、通算OPS 1.164は現在も破られていない。1948年6月13日、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念祝典にて、背番号「3」が、永久欠番に指定された。

ルースは、鼻咽頭ガンによる闘病病院生活を送っていたなかで、医者に支えられ、そして、これが公に見せた最後の姿となった。このセレモニーの2ヵ月後、ガンの悪化によりニューヨークの病院で53歳で死去。葬儀は思い出深いヤンキー・スタジアムでおこなった。現在、ニューヨークのホーソーンにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地に墓がある。

ルースの成功劇は、まさに世界大恐慌前の貪欲なアメリカの生活様式にまさにマッチしていた。ぜいたくな食生活、アルコールや、女性まみれの生活などケタ外れの生活水準はまさに、かれの数々の功績とともに伝説ともなっている。

1920年代、ローリング・トウェンティーズと呼ばれる。第一次世界大戦の特需に、アメリカはおおいに沸いた。アメリカ経済は空前の大繁栄をとげ、戦前の債務国から世界最大の債権国に発展した。世界経済の中心はロンドンから、ニューヨークのウォール街に移った。大衆の生活も、大量生産・大量消費の生活様式が確立した。

この時代の大衆娯楽は、主に国民的スポーツともなった野球や、映画などであった。その情報を伝えたのがラジオや、タブロイド紙であり、とくにラジオの影響力は絶大だった。また、映画は、わずか数年で新しい娯楽としての地位を確立するまでになった。ベーブ・ルースによる野球人気や、チャップリンの映画、黒人音楽のジャズなどのアメリカ的な文化が開花ものだ。

つねに大ゲサで、調子の良い話を早口でまくしたて、身長188センチのルースにとって、体調管理や、養生といった意識は皆無で、
「一度に10個のホットドッグを食べ、一夜で6人の女性を相手にしている」
などと、メディアは素行を報じた。それでも、当時のニューヨーク・ワールド紙は、ルースを、
「最も愛すべきバッターであり、愛すべきバッド・ボーイ」
と評してもいる。

また、ある新聞記者によると、ルースはヤンキース在籍14年間で300万ドルをかせいだともいわれる。いまの貨幣価値に換算すれば、天文学的な数字となろう。これはもちろん狂乱の20年代から、不景気の30年代前半にかけてアメリカでは最高所得者であった。

しかし、ルースのその消費癖もまたすさまじかった。蓄財は皆無。よく稼ぎ、よく使う、それがルースだった。これには、ルースの管財人も困り果て、弁護士も納得のうえ、せっせとへそくりを貯めこんだ。よくもへそっくたり、その金額が25万ドルにもなったという。そのほとんどを、養老年金の積立金にまわしたものだ。

ルース出現までは、ヒットで走者が出ると、盗塁、犠打、エンドランなどの野球としての技術を最大限に使い、得点を重ね、投手力で抑え勝利をつかむという、いまでいう「スモール・ベースボール」の時代だったのだ。

そんなことで、飛ばないボールのもと、「年間2ケタのホームランを打てば、強打者」とされていた時代に、40本越えを11度、50本越えは4度も記録した。そんな規格外の大砲は、第一次世界大戦につかれた国民に爽快感をあたえ、またたく間にスターダムにのし上がった。ニューヨーク・ヤンキースのスターとして、野球をアメリカ最大の人気スポーツに引き上げた大スターなのだ。

それはまた、1919年の「ブラック・ソックス事件」で大リーグは信用を失い、人気にもカゲリが出てきた。そんな時期に、ルースの豪快なホームランで人気を取り戻し、「メジャー・リーグを救った男」といわれるようにもなった。

陽気な90年代といわれる1890年代の半ば、ネッド・ハンロン率いるボルチモア・オリオールズが圧倒的な強さで飾っているころ、ボルチモア河岸にある小さな裏部屋で、一人の赤ん坊が大きな産声をあげた。

この赤ん坊、ジョージ・ハーマン・ルースは過去、現在を通じて大リーグのどの選手も及ばないすばらしい栄光の記録をつくるよう運命づけられていたのだ。

「7歳までの年月の大部分を、ボルチモア西カムデン通りにある父親の酒場の上の部屋で暮らした。上の部屋で暮らさない時は、酒場暮らし、仲仕や、船員や、波止場人足や、港の浮浪者たちの荒々しい言葉づかいを覚えた」
ルースは、1895年2月6日(パスポートを申請どきの出生証明書。が、ルース本人は1894年2月7日を主張)。全米の大都市でもっとも荒んだ街・メリーランド州ボルチモア、それも「豚の街」ともいわれた波止場の貧しい家庭に生まれた。

「ほとんど両親を知らずに育った」
ドイツ系移民であった父親のジョージ・ハーマン・ルース・シニアと、アイルランド系の母親ケイティは、居酒屋を経営しており、家族はその2階で暮らしていた。
「酒場で寝起きしない時は、近所の街路で寝起きした。ぼくは出発点からそもそも腐っていた。そして、ぼくが自分の境遇に気がつくまでには長い時間がかかった」
両親にかまってもらえない寂しさを抱えていたようだ。

母親が病弱な上に、ルースを含め、9人の兄弟姉妹のなかで、幼少期を生き抜いたのは、ルースと、5歳年下の妹だけだった。姉・メームはボルチモアに住んでいたが、面倒をみてくれなかった。父親は一家の生活費を稼ぐために、一日、20時間も働いて、酒場を繁盛させようと一生懸命だったのだ。のち、結核だった母親は亡くなり、つづいて父親も酒場でのけんか騒ぎで刺されて亡くなった。

学校をさぼっては、造船所をうろついたり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったり、もうお手上げ状態。体格のよいルースは親分肌で、近所の子供たちをひきいては悪さのし放題、両親はしばしば警察に注意された。こまったふたりは神父に相談し、神父のすすめで全寮制のセントメアリ少年院にはいることになる。外部から隔離された環境であるカトリックの更生施設兼孤児院だった。ルース、7歳のときだ。

この学校は、当時、感化院と同様の施設と認識されていたという。街で拾われた孤児、不良児、放蕩児、離婚で家庭がそこなわれた子供など、親が貧乏でほかに教育を受ける路のない家庭の子供たちを、収容する学校だった。当初こそ、それまで学校へ行っていなかったためか、ルースは読み書きができなかった。
「ぼくはセントメリーを誇りとしている。そして少し乱暴なようだが、その悪口をいうやつの鼻柱をなぐりつけてやったら、さぞ気持ちのいいことだろうとおもう」

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)ほか多数。