シューレス・ジョー・ジャクソン(4)


フェデラル・リーグは、1913年に名乗りを上げた。大リーグのオーナーたちが、がっちり握っていた独占権にまっこうから挑戦した。アメリカの産業界の伝統である競争に根ざしていたオーナーたちは、才能ある選手を引き抜き、市場を奪いとろうとする戦術だった。1915年のフェズの絶頂期には、カブスのティンカーをはじめ、80人以上もの大リーガーたちがフェズの選手になっていた。

タイ・カップは拒否し、アメリカン・リーグに対する忠誠心と、健全なビジネス感覚を、各新聞は賞賛した。が、ジョーも誘いを拒否したが、田舎者である証拠としかみなされなかった。

フェズ側は、巧妙だった。1915年、16ある大リーグのオーナーが各州の野球興業権を独占していると、連邦裁判所に既存の野球界を告訴したのだ。

その訴訟を、北イリノイの連邦裁判所支部に提起した。というのも、そこには、独禁法を厳しく守るランディス判事がいたからだ。しかし、かれ、ランディス判事はナ・リーグ創設以来のカブスの熱烈なファンであったのだ。そして、この訴訟は、大リーグの存立そのものをあやうくする危険があると信じてもいた。

衝動的に結論を下すことで有名だったランディス判事(ケネソー・マウンテン・ランディス。のち、MLB初代コミッショナー)だったが、この訴訟を慎重に審査することにした。それが11ヶ月たったころ、両者ともに経済的な理由で和解せざるを得なくなった。そしてフェズ側のオーナーの何人かは、大リーグの球団を買い取ることを認可された。こうして再編成された野球界は、何事もなかったように運営され続けられることになった。

さても1915年のことだ。ア、ナ両リーグに割って入ろうとした第3のリーグ、フェデラル・リーグとの争いで、入場者がガタ減り。とりわけ、ナップスはひどかった。前年も、ジョーのひとり舞台でもあったが、最下位。

観客の急激な落ち込みは、チームの財政を危うくしかねなかった。それは、ついに8月、オーナーであるチャールズ・ソマーズは金になるジョーをシカゴ・ホワイトソックスに売り飛ばすという結果を生んでしまった。ファンたちはショックをうけ、失望した。
「チームだって? 大事なジョーをシカゴへ売っぱらってしまうようなチームだぜ」

673試合出場。973本のヒットうを打ち、そのうちの400本位がホームランだった。通算打率は、0.374だった。ジョーはといえば、たいへん残念に思ったが、新天地シカゴのホワイトソックスの力になって、ワールド・シリーズに出場させたい、と語っていた。


その同じ年、ホワイトソックスはといえば、アスレチックスからエディ・コリンズをも獲得して、十分優勝を狙えるチームとなっていた。

シカゴでのジョーのデビュー戦は、華々しいものだった。かれのライト前ヒットで延長戦を制したのだ。ジョーには1万ドル支払っているとコミスキーは広言し、お気に入りとはなったものの、実際の俸給は6000ドルでしかなかった。

父親は上院議員という恵まれた家庭環境で育ってはいたものの、コミスキーは一選手から、大リーグのオーナーになった傑物ではある。しかし、球団を私物化し、ケチというか、しみったれオーナーと評判だった。大リーグ球団で最も利益をあげているチームのひとつでもあったが、選手への支払い総額は、一番低かった。

選手のユニホームのクリーニング代をも出さなかったというから、徹底している。選手たちのユニホームがいつも汚れていたためか、”ブラックソックス”とも揶揄されていた。守銭奴コミスキーといわれるゆえんだ。

とうぜん、コミスキーに対する不満や、うらみがあった。そんな険悪な雰囲気をのっけからつきつけられ、ワールド・シリーズ出場も夢ではないと意気込んでいたジョーには、ショックをあたえるに十分だった。それは、ジョーの野球への楽しさを奪った。この年、ジョーの打撃成績は、308と最低だった。

1917年、ホワイトソックスは100勝をあげ、2位のチームに10ゲーム差をつけ優勝を飾った。そして、マグロー・ジャイアンツをしりぞけ、11年ぶりのワールド・シリーズの覇者となった。しかし、ボーナスを約束していたコミスキーは、安いシャンパン、1ケースを提供しただけだった。この年、ジョーはまたも最低の打撃成績の301。

そんなころヨーロッパでは、戦争がはじまっていた。第一次世界大戦だ。アメリカの参戦も、時間の問題となっていた。徴兵で戦争におもむく選手もいたなか、ジョーは家族を養わなくてならないという理由で、徴兵を免除され、アマチュア・リーグで活躍。

徴兵回避で、ジョーは新聞でさんざんたたかれたジョーではあったが、1919年チームへの復帰はファンが一番喜んだ。しかし、チームの状態は最悪だった。あいかわらずチーム内は険悪だった。そのうえ投手は力不足で、とても優勝をのぞめるチームではなかった。

ところが、スピットボールの名手・シコッティと、ウイリアムズの二人で52勝をあげ、ジョーは負傷しつつも、打撃成績が358と、この6年間で最高の成績をあげ、2位のクリーブランドに3ゲーム差をつけ、ア・リーグ優勝をさらったのだ。ジョーは、ア・リーグの各打撃部門ですべて上位を独占し、最高の選手であることを証明した。

それでも、選手同士の気まずさ、コミスキーとの不和。賃上げを望むも、コミスキーは完全無視。ジョーは生まれて初めて、野球に苦しみをおぼえたものだ。

ワールド・シリーズの期待がふくらむなか、そんな最中にジョーは、コミスキーに自分を外してくれと直訴した。これが、「ブラックソックス・スキャンダル」に結びつけられるようになるとは、ジョーの知るよしもなかった。

ウワサは、シリーズ前からあった。しかし、これはいつものことだった。しかしながら、この年、ワールド・シリーズは9回のシリーズ戦となったが、史上最強軍団であったはずのホワイトソックスは、3勝5敗でシリーズを失ってしまったのだ。

1919年のシーズンも終わり頃、ジョーはレッドソックス戦のため、ボストンにいた。ケンモア広場を散歩していたジョーのところに、一塁手のギャンディルが近づき、
「あることをでっちあげて、1万ドル手に入れる気があるか? 」
と誘われた。ギャンディルは、マフィアとのつながりがあるといわれていた。
「もうすでに7人の選手が同意している」
ともいった。ジョーは断った。すると、ギャンディルは困ったような顔つきをして、
「おまえも仲間だと、ギャンブラーたちに伝えている」
といった。その後、シカゴに戻ってくるや、
「引き受けようと引き受けまいと、おまえの勝手だ。好きなようにやればいいさ」
と捨てせりふをはき、ギャンディルは去ってしまった。野球賭博は、当時禁止されてはいなかった。公衆の面前で、堂々と行われていたのだ。そんなウワサを、一部ギャンブラーが聞きつけ、新聞にも連日、書かれはじめた。

ジョーは、ウワサが広まり、八百長仲間と見られるのがイヤで、コミスキーに事情をはなそうとしたが、かれは応じようとはしなかった。第一に、チーム力が劣ってしまうからだ。それに、いつかは立ち消えになるだろうと思っていたフシがある。

※ 参考文献:『折れた黒バット』(ドナルド・グロップマン著 小中陽太郎訳 ベースボール・マガジン社刊)