シューレス・ジョー・ジャクソン(3)

ジョーは皮肉にも3年ごとに、新しいチームに加わり、記録的な好成績をあげるも、翌年になるといなくなるという繰り返しで、こんどのクリーブランドで3度目だった。

クリーブランド・ナップスは、ペリカンズと密接な関係にあった。そして、この春、2つのチームがペリカン球場でトレーニングをおこなった。それにそのスプリング・キャンプどきにいだいたジョー獲得の夢を忘れていなかった。というのも、マックから、ジョーをトレードする可能性があると聞かされていたからだ。

その交換条件として要求した選手は、一度マックがトレードに出した、ヴェテラン外野手だった。クリーブランド側には、なんの問題もなかった。ジョーのサバンナ時代の監督・ギルクスが派遣され、さっそくジョーを説得した。7月の終わりごろに、契約がまとまった。南部リーグの優勝戦が終わり次第、ジョーがクリーブランドの一員になることが決まったのだ。

後半戦20試合に出場して、ジョーは打率379、うち8本がホームランという好記録を残したものの、いつものことだが、そんな時に限って、
「今日のように大きくなった大リーグでは、読み書きが出来ない男が成功するはずがない」
と、当時の有能な記者であったヒュー・フラートンが言ってのけたのだ。それはまさしく、ジョーの転落を予言したかのような言葉だったのだ。

しかし、かつてのアスレティックスのチーム・メイトが、いみじくも、
「おれたちと一緒だったころのジョーとは思えない。あいつは10倍もたくましくなった」
かれらはジョーのおとなしい口調、おだやかなふるまいを、性格の弱さからくるものだと勘違いしていたのだ。それはまた、ここクリーブランドの地が10倍以上もプレーしやすいムードができあがっていたのだ。


そのクリーブランドは、大リーグとしては数奇な運命をたどってきた。ナショナルズを名乗っていた時代、鉄道王と知られたロビンソン兄弟が金銭がらみで買い取った。が、ファンを失望させ、ついにはチームを崩壊させるにいたった。そして、一度はなくなったチームを、1901年、ブルースというチーム名でアメリカン・リーグ創設時に復活した。

そんな翌年、三冠王をとったばかりのナポレオン・ラジョイこと、ラリー・ラジョイがアスレチックスから加入した。

偉大な大リーガーでもあったかれは、フィラデルフィア・フィリーズ出身だったが、高額トレード・マネーで同市のアスレチックスに移籍。これに異を唱えた球団は提訴して、ラジョイはフィラデルフィアではプレーできなくなり、スパイダースと名乗っていたクリーブランドに移籍した。

そして、かれの当地での選手生活は大成功。チーム最高の選手であったし、5年間は監督としても活躍。ついにはチーム名そのものも、一般公募でナップスと変えてしまった。かれの洗礼名・ナポレオンにちなんだものだった。

1911年、ジョーの活躍はシーズン当初から、すさまじかった。37試合連続ヒット、12試合で26本のヒットを放つなど大活躍だ。いつのまにかジョーはくつろいだ気分になっていた。あのサウスカロナイナなまりのゆっくりとした口調で、一部のチーム・メイトとも会話をはじめ、冗談をも言い合うようになっていたが、大半のナップスの選手たちからは、
「裸足のいなかモン」
と、カゲ口をたたかれていたが…

ファンはジョーに、それまで以上に、熱狂的と言えるほどの応援をおくった。
「ブラック・ベッツィで、やっつけろ。一発かましたれ! 」
と、昔懐かしい言葉をはりあげた。地元チームが勝とうが負けようが、どうでもよかった。ジョーへの期待が、はるかに大きかったのだ。

あらゆるベンチ・ジョッカーたちがヤジを飛ばすも、ジョーはめげなかった。不要な力をいれずに、ブラック・ベッティをいつもと同じやり方で握り、右手の小指はバットの一番下の握りにかけていた。

なんの小細工もせず、ただきた球を鋭く振りぬき、ライナー性の打球を飛ばす。それが、ジョーのバッティング・スタイルだった。タイ・カップなどのように、バットに握り方をその場で変えることもなかった。

ただ、ウォルター・ジョンソンにだけには、バットを一握り残して狙いすまし、アテにいったものだ。そのかいあって、通算打率は5割と高い。
「何一つ弱点はないんだ。ジョーに試合をかきまわされずにすんだ日は、それだけでうれしかった」
と、ジョンソンは語ったものだ。

それに、審判に対するクレームも少なかった、というか、一度もなかった。ジョーの一番厳しい抗議は、首をかしげることだったのだ。そんなジョーだったからこそ、ファンはジョーを愛した。それは、ジョーと対戦した選手たちもそうだった。

デトロイトのキャッチャーは、ジョーにヒットを打たさないために全力をつくしたが、その日もカンペキなヒットを2本打たれ、その第3打席目、
「このシーズン、どんな球を投げても打たれてしまった。今度はどんな球をご希望かね」
と、ジョーに訊ねた。すると、
「外角高目がいいね」
とこたえると、ホントにその球がきた。ジョーはレフト前にはじきかえした。また、アスレチックスの頭脳派であり、最強の投手であるチーフ・ベンダーはいみじくも、
「ジョーには何を投げてもムダだと結論がでているよ」
と語ったものだ。

ジョーの打球はライン・ドライブで低く飛ぶので、内野手のグラブが吹っ飛び、その打球の勢いで内野手がたたきつけられても、それでもエラーになってしまう。

あの名外野手トリス・スピーカーでさえ、打球が音を立ててまっしぐらに飛んできて、グラブを構えたが、すでに遅く首を直撃して、ランニング・ホームランを許したこともあった。そんな打球であったからこそ、外野フェンスを直撃しても、勢いが良すぎて内野の近くまで大きくバウンドして戻ってきて、たんなる単打にとどまることも多かった。

その年、22歳になったジョーの初のフル出場ともなった。408の打率。233本のヒット数はイチローがその記録を抜くまで、新人の最高記録だった。が、運悪く首位打者のタイトルは、カップに奪われた。その年のカップは、かれの輝かしい球歴のなかでも、特筆すべき最高のものだったのだ。

カップの自伝によると、そのときの面白いハナシが伝わっている。同じ南部出身ということもあって、
「タイ兄貴、調子はどう? うまくいってるかい? 」
と、いつものようにジョーが話しかけてきたが、その日に限って、カップは冷淡な表情をくずさず、ジョーを見つめていただけ。すると、ジョーのなごやかな笑みも消えて、
「なあ、タイ。いったいどうしたんだい? 」
とたずねるも、カップは何も言わず、素通りしてしまった。ジョーは気になって、追いすがってもう一度たずねようとすると、
「オレの側に近づくな」
と、カップはどなった。ジョーはひどく傷つき、バッティングの調子さえ狂ってしまった。と、まあ、こんなぐあいでカップは悪知恵を働かせ、ジョーを追いやったと書いている。

ジョー自身はというと、
「カップは初めからボクをリードしていた。ヒットの数だって、カップのほうが多かった」
と、その当時を回想したものだ。

続く1912年、13年と最多安打を記録。ジョーはまさに、過去のいかなる打者よりもぬきんでた才能を発揮しはじめたのだ。

カティもまた、球団のマスコット的存在だったようだ。輝く微笑み、淡いブルーの瞳、小奇麗なまでの服装。ジョーの妻・カティはほかの選手の妻たちを圧倒していた。

その彼女は、バックネット裏のお気に入りの一番うしろの席で観戦し、ジョーがヒットを打つと声援をおくり、倒れるとタメ息をついた。ジョーは、
「1マイルもボールを飛ばさない限り、カティはヒットとして認めてくれない」
と、よくこぼしたものだ。しかし、それも7回のウラまでだった。試合に何が起ころうとも、7回が終わるとさっさと帰ってしまった。
「うちに帰って、夕食をつくらなければならないから。家で食べるほうが、ジョーの健康にはいいのだ」
ということである。

あっ、それと、選手の縁起かつぎにはいろんなものがあるが、ジョーのそれは、ヘア・ピン集めだ。打てなくなると、その集めたヘア・ピンをばらまき、またひとつひとつ集めるってわけだ。

※ 参考文献:『折れた黒バット』(ドナルド・グロップマン著 小中陽太郎訳 ベースボール・マガジン社刊)