「ジョーに初めてあったとき、わたしは二塁を守っていた」
と、ジョーをはじめて見出した男、トミー・ストーチはつづけて、
「背ばかり高くて、細い男がバッターボックスに入ってきた。まあ、たいしたヤツじゃない、と思ったね。ところが、その打球ときたら、まるで弾丸だ。一直線に、わたしのところに飛んできたんだ。カンタンに取れると思っていたんだが、向こう脛を直撃だ」
と、いまでもおどろきをかくせない風だった。のち、かれはジョーを引き抜いて、グリーンヴィル・クラブ(カロナイナ・アソシエーション)の監督になった。
「そのときの試合でヒット3本、うち2本はホームランだった。それも球場に響きわたるような快音をのこして、それもボールが飛んだあとに青い焔が燃えたかと思うようなヤツだったよ」
と、当時を思い出すかのように、いかにも楽しそうに語っている。

元大リーガーのかれは、コニー・マックのもとで、アスレチックスのスカウトをやっていた経歴がある。そのかれからの情報で、マックはさっそくケガをしていた外野手・セイボルトを派遣。というのも、ジョーはセミ・プロのチームから、マイナーのグリーンヴィル・スピナーズに移っていて、すでに大リーグのスカウトたちがジョーのウワサを聞きつけて、押し寄せてきていたのだ。

さて、ストーチは、スプリング・キャンプに入ると、ジョーの守備位置を外野に決めた。その日の試合、ジョーはバッターボックスに4回立ち、二塁打1本、三塁打1本、そしてライナーのホームランを1本打った。そのホームランは、一塁ベースを踏まなかったために取り消しになった。が、セイボルトにとって、そんなことなんてどうでもよかった。ジョーの能力は、充分すぎるほど分かったのだから。

報告を受けたマックはただちに、本職のスカウトを送り込み、シーズン終了後、ジョーを買い取る契約を交わした。契約金は、当時では破格の900ドル。グリーンヴィルの人たちをおどろかすには、十分な金額だった。

その契約前のことだが、7月のある日、19歳のジョーとは幼なじみであり、15歳のカティ・ウインと結婚した。プロの選手となって、野球で生計を立てていけると確信したのだ。おしどり夫婦として、後年つとに知られたものだ。

さても、ジョーの大リーグ入りというので、グリーンヴィルの町は大騒ぎだ。が、とうのジョーときたら、スピナーズとの契約が切れても、グリーンヴィルを離れなかった。ジョーを一日でも早くアメリカン・リーグの試合に出場させたかったコニー・マックは、いたく落胆した。

大都市・フィラデルフィアは、大リーグ球団を2つ持っていた。1908年当時、ナ・リーグのフィリーズは、4位に終わり、優勝したカブスとのゲーム差は16もあった。が、一方のア・リーグのアスレティックスは、6位に終わったものの、マックのもと、”ホームラン・ベーカー”ことフランク・ベーカー、エディ・コリンズも加わり、チーム再建のまっ最中だった。

それだからこそ、マックはストーチに電報を打ってまで、ジョーを連れてくるよう、必要ならばつきそってくるよう依頼したのだ。大リーグの選手になるのを拒否する人間がいるなんて信じられなかったストーチは、ジョーと話してみることにした。
「北部の大都会で、自分が満足できるか自信がない」
と、気の弱いことをいいだしたのには、おどろいた。ストーチは懸命に説得し、ようやくフィラデルフィア行きに同意させたのだ。

けれども途中で、ジョーは気が変わった。ストーチといっしょに乗っていた汽車から勝手に降りて、あきれたことにグリーヴィルに帰ってしまったのだ。あわれ、ストーチはおいてけぼりをくらってしまった。

それよりも、一刻も早くジョーを見たかったコニー・マックの落胆はさらに大きく、かのセイボルトをまたも送り込み、ジョーを連れてくることを厳命した。そんな追っかけごっこが新聞ざたになり、当然のことながら、おもしろおかしく書きたてられたものだった。とりわけ、「スポーティング・ニューズ」誌の特集記事もあり、ジョーが才能ある選手だという評判は広くゆきわたっていたから、なおさらだった。

そんなジョーだけに、選手生活のはじめから、ずっとあざけりと、からかい半分の調子がついてまわった。怠慢で、無責任、あげくは読み書きができないことがわかって、新聞記者たちは馬鹿者だと決めつけてしまった。

そうこうするうちに、対クリーブランド戦がジョーの初お披露目となった。1908年のことだ。それがまた、かれはセンターを守り、新人ながら4番をつとめたのだ。それはもちろん、マックのジョーに対する最大級の好意だったのだ。

すると、いきなり初打席で、スピットボールの名手から、レフト線にクリーン・ヒットを放つ。守っては、浅めの守備から、打った瞬間、体を回転させて、打球方向に疾走。さらに左中間のフェンス際からサードへの返球と、ジョーの野球への本能的なうまさと、ランナーとしての能力も充分に見せたものだ。
「初出場でのジャクソンは、すべての点で最高だった。欠点は何一つない。打ってよし、守ってよし、しかも足も速い」
と、ある新聞は書いた。しかし、マックはそれ以上のことをいった。
「このまま無事に成長していけば、ジョーはすぐに野球史上最高の選手の一人となるのは確実だ」

しかし、次試合でのア・リーグ2連覇中のタイガースと、とりわけ大スター、タイ・カップとの対決を心待ちにしていたファンは肩透かしをくうことになった。タイガースがやってきたとき、ジョーはグリーンヴィルへ帰ってしまったあとだったからだ。

それというのも、マスコミの熱狂振りがいささか過熱気味になったこともあるが、それ以上に、チームのヴェテラン選手たちによる世間知らずのジョーに対する嫌がらせに、いたたまれなくなったことが大きかったともいう。このときの行動については、ジョーは一度も弁明をしなかったが、やはりずっと後年、親しい友人に、
「生涯で一番不愉快な思いをさせたから」
というのだ。

前歴を軽蔑さえして、不当に辛くあたった。さらに、皮肉や侮辱を浴びせ、チームから追っ払おうとさえもした。あげくは読み書きができないということ、田舎臭さにあきれ、バカにした。世間知らずの若者を、あざ笑うあらゆるいたずらがしかけられたのだ。

それでも、かのストーチ、また母親の忠告もあって、一度はフィラデルフィアに戻っては来たものの、事態は以前のまま、アスレティックスの選手たちはジョーを苦しめた。試合には出場したものの、ジョーは精神的にすっかりまいってしまっていた。そして、ある日ふたたび汽車に乗り、グリーンヴィルに帰ってしまった。もう、ジョーはお終いなのか。ジョーに好意的な新聞までが、
「マックの命令で追放される。二度とプロ野球の試合に出場することができないだろう」
とまで書いた。

しかし、家族との話し合いのなかで何があったのかわからないが、翌年の1909年ジョーは荷物をまとめて、アトランタでおこわれているスプリング・キャンプに乗り込んだ。ジョーは、いたたまれなくもあったが、まだがんばっていた。そのキャンプも終わり、チームはエキジビション・ゲームをこなしながら、北へ向かっていた。

マックが、ジョーのあまりの子供っぽさに怒りを爆発させたのは、そのさいに起こった。汽車の時間待ちをしていたジョーが、どこかに運ばれるであろう赤いラベルを貼られたミルク缶をみて、
「あの赤いラベルをぼくに貼ってくれたら、どこかフィラデルフィア以外のところへ連れて行ってもらえるのになあ」
とつぶやいたのを、マックが聞きつけ、
「ジョー、本気でいっているのか? 」
と、怒気も荒く訊ねると、
「ええ、本気です」
と、ジョーは答えた。すると、マックは、
「よし、いいだろう。希望をかなえてやろう」
と、マイナーのサバンナ・インディアンズに送り込んでしまった。ジョーは、フィラデルフィアには戻りたくなかったのだ。

だが、シーズンもおおずめになって、アスレチックスは、優勝争いの真っただなかにいた。それだからこそ、マックはジョーを呼び戻したものの、肝心のジョーに、野球をする気がなかった。

そこで、ふたたびマックは、おなじくマイナーのニューオリンズ・ペリカンズに送った。そのジョーはといえば、意気揚々とキャンプ地に向かい、その地元であるニューオリンズはジョーの参加で、一気に球運が盛り上がったというのも皮肉なことだ。

優勝争いまでやってのけていたペリカンズだったが、ジョーは7月に、クリーブランドへトレードとなる契約が、すでにまとまっていた。マックは後年、
「かつて離さなければならない選手が、ひとりいてねえ。でも、結局は渡してしまった。それが、最強打者ジョー・ジャクソンだよ」
と、いかにもなつかしそうに語ったという。マックには、なにがジョーを悩ませていたのか、わかっていたようだ。
「シーズン後半、ジョーと、カティを呼び寄せ、われわれのやり方を教えようとしたが、二人はなれてくれなかった。選手たちはジョーをからかうし、ジョーはジョーで、かれらと打ちとけようとしなかった」
あっ、そうそう、その年、ニューオリンズは悲願の優勝を手にしたのだ。

参考図書:『折れた黒バット』(ドナルド・グロップマン著 小中陽太郎訳 ベースボール・マガジン社刊)