葬りられた天才バッター、ジョー・ジャクソン

「Say it ain’t so,Joe? (違うよねえ、ジョー?) 」
と、少年が涙声で発したといわれるこの言葉こそ、いまも語り続けられているジャクソン伝説のはじまりだった。ロバート・レッドフォード主演、あの傑作・「The Natural」(1984年)のロイ・ハブスは、彼がモデルだとされる。

そんなジョー・ジャクソンが残したのは、輝かしい成績だけではなかった。映画・「フィールド・オブ・ドリームズ」、「エイトメン・アウト」の題材にもなった「ブラック・ソックス・スキャンダル」により球界永久追放になり、メジャーの歴史上最大の汚点も残したのだった。だからこそなのか、かれは多くの米作家、映画演劇関係者の制作意欲を刺激し続けてきたようだ。

しかるに、大リーグの歴史を語るうえで、負の遺産というべき「ブラック・ソックス・スキャンダル」を避けて通ることはできないだろう。それはまた、不出生の天才バッターをも葬り去ったのだ。

しかしながら、その少年のつらく切ない問いかけは、「ニューヨーク・イブニング・ワールド」紙上で意図的につくられた言葉だった。ジョーが大陪審室を出て、裁判所の階段を下りてくるところを、たくみな描写で記事にしたものだ。

もとより、それは、記事を書いたとうのヒュー・フラートンも認めている。ましてや、その新聞記者こそ、いみじくも新入団したジャクソンがクリーブランド・ナップスでの活躍を大いに期待されているやさきに、
「無学文盲で、大成したやつはいない」
と、まさにジョーの転落を予想するかのように、書いてのけた記者だったのだ。かれは当時、もっとも有能な野球記者の一人だった。悪いことに、この記事の影響はあまりにも大きかった。とりわけ、ジョーへの悪評は決定的なものとなったのだ。

今までもそうだったが、ほとんどの記者たちは自分の書きたいように、ジョーのことを書いていた。そして、読者も、新聞記者がでっち上げたものを読み、それを鵜呑みにしていたのだ。

1920年、シーズンも終わるころ、全米に激震が走った。それというのも、前年度、シカゴ・ホワイトソックスと、シンシナティ・レッズとのワールド・シリーズで、前代未聞の八百長がおこなわれたと、ある地方新聞がスクープしたのだ。

それこそが、プロのギャンブラーたちと、ホワイトソックスの何人かの選手が故意に八百長を仕組み、選手権をレッズに売り渡す策謀がなされたという事実ことこそ、いまでも悪名高い「ブラック・ソックス・スキャンダル」と知られる全米を揺るがした事件であった。

それというのも、史上最強軍団のひとつと、誰もが信じて疑わなかったホワイトソックスが、ごく平凡なチームであるレッズに3勝5敗で負けたことから、ふたたび八百長のウワサが蒸し返されたのだ。

9月28日、大陪審はついに、ホワイトソックスの中核をなす8人の選手と、数名のギャンブラーを、謀議して八百長をくわだてたとして起訴(うち、1人は証拠不十分のため不起訴)。

それは、アメリカン・リーグ会長であるバン・ジョンソンが提供した証拠書類、および数名の選手から得た自白をもとに、この起訴はおこなわれた。

ホワイトソックス・オーナーであるチャールズ・コミスキーから持ち寄られた情報を、側近から聞いたジョンソンは当初こそ懐疑的だったが、野球界全体に大きな被害がおよぶのを承知で、このスキャンダルに対処した。

しかし、選手側の首謀者であった一塁手・ガンディルの出廷拒否、暗黒街の大物・ロススティーン一家の組員で、元フェザー級世界チャンピオンでもあった総元締め・アテルをも法廷に引きずり出すことができなかった。

あげくは証言記録のファイル消失もあったりして、翌年、最終論告で検事は懲役5年と、罰金2000ドルを求刑はしたものの、その8月2日、陪審は選手たち、ジョー・ジャクソンら被告人を全員無罪との評決を下した。

結局のところ、あいまいさの残るしりすぼみの結果になったが、初代コミッショナーに就任したランディス判事により、”野球の高潔さを守る”ためとの理由で、ホワイトソックスの8人の選手を野球界から永久追放となった。むろん以後、復帰したものはいない。それは、ジョーとて同じだった。

ジョーは仕組まれて、たしかに金はもらったけれども、だからといって、プレーに手抜きはなく、八百長はしなかった。それは、シリーズ戦績が、両チーム一の打率0.375、ワールド・シリーズ・レコードとなる12本のヒットの数、外野からの返球・捕殺で、5人アウトにしていることからもわかるように、八百長の事実を裏切るものだった。

それにもかかわらず、ジョーは幾多の誹謗と、中傷の圧力に耐え、反論することもなく、黙って甘受しとおした。1951年12月5日、心臓発作で亡くなるまで、堂々と振る舞ったのだ。

メジャー通算13年間プレーするも、実働はといえば10年たらず。1330試合出場で、1774安打。生涯打率0.356は、MLB史上第3位の記録である。ルーキーとして、233本のヒットこそ、90年ぶりにイチローに抜かれたとはいえ、4割(.408)をマークした最初のバッターでもあった。タイ・カップは、
「ジャクソンこそ、史上最高のバッターだ」
とほめそやし、ベーブ・ルースもまた、
「ジャクソンのスイングをコピーした」
と、たびたび広言もしていた。もちろん、それ以上に、地元スポーツ記者は、
「三拍子そろった選手で、欠点は何一つない」
と、最大級の賛辞を送ったものだった。アメリカン・リーグの野球ファンを熱狂させ、同僚選手たちからは最高の賛辞をほしいままにした。ジョーこそは、天性の大打者だった。が、クーパーズタウンにある野球殿堂には入っていない。そればかりか、大リーグに属した選手の公式リストにすらない。

ジョー・ジャクソンは1888年、南部サウスカロナイナ州ピッケンスに、貧しい土地の小作人の長男として生まれた。その1888年という数字には、1年ほどズレがある。というのも、当時のサウスカロナイナ州では、出生届の必要がなかったのだ。さらには、一家の出生と、死を記録する家庭用聖書が火事で燃えてしまい、正確な日付がわかっていない。

とはいえ、3~4歳のころには、紡績の街・グリーンヴィルに引っ越し、6~7歳のころから紡績工場の軽作業をこなしていたようだ。まだ幼児とはいえ、週に72時間も働いていた。その後、プロ選手になるまで、工場で働いたり、辞めたりしている。それは、かれの生来の病弱な体質にもよるが、それよりも仕事での責任感がまったくなかったらしい。

13歳のころから、ブランドンミルの織物工場での野球チームで、プレーをはじめた。そのころすでに、野球は全アメリカの国民的スポーツになっていた。それは、ここグリーンヴィルも例外ではなく、ジョーはその工場チームのスター選手だったのだ。

12人の選手が、チームに登録されており、工場主も選手が他チーム引き抜かれるのを恐れ、土曜日の昼の試合に対して、一人につき2ドル50セントの報奨金を出した。また、仕事の時間中に野球の練習するのも大目に見ていたし、よい成績を上げた選手には、特に割の良い仕事につかせた。

当然、競争は激しいものとなった。が、ファンはもちろんのこと、ジョーの恵まれた才能には、それ以前から、監督や、その道の専門家が惚れ込んでいたのだ。
「ブラック・ベッティでかましたれ! 」
と、ジョー愛用のバットに親しみを込め、ファンは声援をおくったものだった。みんながジョーを愛していた。右手の小指はバットの一番下の握りにかけていた。それに、バットの振り方をその場その場で変えることも、めったになかった。

ジョーのポジションは、当初は長くてしなやかな右腕をいかして捕手だったが、やがてピッチャーと、サードを、主にピッチャーを2年やった。抜群のコントロールをほこったほどだったが、バッターの腕をへし折ったためかどうか、外野手に転向。以後、ジョーの定位置となった。

ちなみに、「シューレス・ジョー」というニックネームは、アスレチックスのスカウトがジョーを見つけたときに、スパイクをはかずに、ストッキングでプレーしていたことにちなむ。それというのも、新しいスパイクが足になじまず、靴づれを起こしたためだったのだが…

参考図書:『折れた黒バット』(ドナルド・グロップマン著 小中陽太郎訳 ベースボール・マガジン社刊)