1941年、マック監督が、はじめてブリッシーに会ったのは、アスレティックスOBの紹介で、かれがまだ17歳で、プレスピテリアン大学に在学している頃だった。このブリッシーが、マック監督を、少年の頃から神さまのように尊敬していたのだ。長身で、痩せ型のサウスポーだった。が、その左腕からくりだすめくるめく速球に、マックは一目惚れ。
「これは、レフティ・グローブの再来じゃないか」
とおもったものの、マックは無理強いはしなかった。
「中退は辞めなさい。大学を卒業してから、うちの球団に来なさい。わたしは契約書と、ユニフォームをそろえて待っている」
ノドから手がでるほどほしい左腕ではあるが、選手の社会人としての将来を配慮した。偉大なる苦労人のマック。

ところが、このブリッシーが、1942年学業半ばにして、志願兵となった。
「早晩そうしなくてはいけない、身の上です。だったら、一でも早く志願します。そして、一日でも早く帰って、アスレティックスのため、マック監督のために投げます」
ところが、その2年後だった。厳冬のなかで幕営していたとき、イタリアのボローニアで歩兵伍長として勤務していたが、そこでドイツ軍のロケット弾を浴びせられたのだ。出血しっぱなし、おまけに左のスネが粉砕されていた。軍医は、
「この足は、切断しなくっちゃいけない」
すると、意識朦朧(もうろう)となっていたブリッシーは金切り声を上げ、
「わたしは、野球選手です。これからアスレティックスで投げるんです」

それから、23回もの手術の痛手に耐えた。それを伝え聞いたマックは、
「きみに、初の監督命令を出す。すみやかに回復せよ。負けじ魂を失うな」
と、手紙が届いた。どれほどこの手紙で、ブリッシーが励まされたか、想像にがたくない。負傷してから、3年目、1946年のある日、ブリッシーは、アスレティックスの球団事務所に松葉杖をついてあらわれた。
「コニー・マックさんにお伝え下さい。ルー・ブリッシー、ただいま出頭いたしました、と」
約束通り、ユニフォームは用意されていたが、グラウンドにでて、投球練習はしたものの、やはり安定感を欠き、1球ごとに倒れ込んでしまう。
「もう一度だけ最後の手術をします。来春にあらためて参上します」
と、ブリッシーはいった。マックは、
「よし、分かった」
と、うなづいたものだ。さて、翌年のスプリング・キャンプに、ブリッシーは予告通り参加した。ちょいとギクシャクしたが、ほかの選手たちと、ハードな練習をこなした。それを見ていたマック監督は、メジャーではムリと決断し、
「いいか、みんなに君の勇気のあるところをみせてやるんだ」
と、ファームのサバンナ球団に送った。出足でつまずいたものの、ブリッシーは23勝をあげ、防御率は1.91。サウス・アトランチック・リーグの投手部門のタイトルを総なめにした。

さて、翌年の開幕試合。対レッドソックス戦、ボストン。ダブル・ヘッダーの第2試合、ルー・ブリッシーのメジャー初登板だ。この日は、「愛国者デー」の催し物がおこわれていた。第一試合も復員軍人の、マーチルドン投手が活躍し、4-3で試合をものにした。

ブリッシーは、初回早くも、史上有数のテッド・ウィリアムズと戦うハメになった。かれも、もちろん復員軍人だった。とりわけ、ブリッシーの場合は、新聞、ラジオで紹介され、不死身のカムバックと、知れ渡っていたから、大変だ。

が、ウィリアムズの一打は、投手返しの猛ライナーだった。それも、まずいことに、打球は左足を直撃。はねた打球が右翼のフェンスまで達したということから、凄まじさもわかるというもの。球場全体は、一瞬静まり返った。一塁側、三塁側の選手たちも飛び出し、ウィリアムズも一塁から駆けつけた。横たわったままのブリッシーは、ウィリアムズをまじかにみると、
「ウィリアムズさん、わたしはあなたをプル・ヒッターばかりと思っていました」
と、屈託もない笑いを浮かべたという。打球は、金属板に正面から当たったので、ショックですりむいた程度で終わり、すぐ立ち直ってなげはじめた。その年、14勝、翌年16勝。足掛け7年、ブリッシーは全力でメジャーの投手生活を駆け抜けた。ウィリアムズはもらした、
「あいつは、じつに素晴らしいことをやった」

当時のアスレティックスの本拠地シャイブ・パークは、マックの功績を称えて「コニー・マック・スタジアム」と呼ばれ、アスレチックスが、1950年代にカンザスシティに移った後も、ナショナルリーグのフィラデルフィア・フィリーズの本拠地として1970年まで使われた(1976年に老朽化のため取り壊された)。また、現在のフィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークのそばに、マックの銅像が建てられている。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)