「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(2)!

当時のアスレティックスは野手陣が充実しており、レフティ・グローブは、
「投手がいい成績を残すコツは、2つある。一つは体調を整えること。もう一つは、肩の強い内野手と、足の速い外野手をそろえることさ」

それだからこそ、「試合は勝つべきもの」
あって、レフティにとっては、負けは、
「予期してなかった恥さらし」
だったのだ。敗北を、とことん嫌った。だからこそ、負けると、悔しがって怒り狂った。ロッカーに頭をぶちつけたり、ユニフォームを切り裂いたりと、その悔しがりようは、半端がない。ロッカーを殴るのは利き手である左ではなく、右でパンチだったようだが…

ただ、レフティは自分に怒りをぶつけるだけじゃなく、味方の打者にも容赦しなかった。バッティング練習でいい当たりをされると、ピーン・ボールを投げつけることもあった。

はたまた、上司、とりわけかの半世紀以上も監督をつとめたコニー・マックにも、大いに当たり散らした。たとえば、その試合、対ブラウンズ戦だったが、ア・リーグ新の17連勝を目指していた。7回、レフトに大飛球が飛んだ。レギュラーのシモンズがかかとを負傷し欠場していて、新人が守っていた。判断を誤り、ボールはフェンスを転々。この間に、ランナーは長駆ホームインしてしまった。ついには、黒星を喫し、記録は途絶えた。その選手とは、二度と口をきかなかったのだとか。

さても、クラブハウスにもどるや、案の定レフティは荒れ狂った。ロッカーに体当たりをするわ、ユニフォームは引き裂くわ、辺り構わずに、だ。もう手がつけられない。作戦のまずさから、敗戦を招いたのだといって、
「お前さんに、ピーナッツをぶつけてやりたい」
皮肉られたマック監督も、負けじと、
「おれも、お前さんにピーナッツを投げつけてやりたい」
と、やり返したという。だからといって、不和な仲じゃない。マック監督は、それこそレフティに惚れ込んでいたのだ。記者団にはよく、
「史上最高のサウスポーは、だれだと思う? 伝説化したルーブ・ワッデルか、エディ・フランク? いや、違うね。うちのレフティ・グローブだ」
後年レッドソックスにトレードにだしたあとでも、マック監督は事あるごとにレフティのハナシをして、ほめたたえたそうな。

また、こんなこともあった。リリーフで投げていて、外野手のミスで2点献上。
「もうリリーフなんて、今夜限りだ。こんなボロ球団のために、二度とリリーフなんかに出るものか」
と、グラブをたたきつけた。マック監督は、
「そんな口の利き方をするな」
と、注意するも、
「お前さんに、口のききかたまで、指図されるすじあいはないよ」
これには、さすがのマック監督も、頭にきて、
「口とは、こういうききかたをするものだ」
といって、かたわらにいた投手に、
「ウォーム・アップに行け。お前が出て、ホントの投手はこういうものだとみせてやれ」
「ああ、早く行け。全投手がウォーム・アップでもしなければ、追いつくまいよ」
と、レフティは皮肉交じりにいった。ところが、味方の攻撃が終わると、グラブを拾って、またマウンドにあがっていった。そして、勝利投手になった。

34年のオフには、トレードでレッドソックスへ移籍。緊縮財政の方針による放出で、アスレティックス側には12万5000ドルのトレードマネーが支払われた。

懲罰トレードとみるむきもあった。が、マック監督は、そんなみみっちい行為なんぞはするはずがない。峠を越したと、判断した模様だ。しかるに、その8年間、レフティは20勝した年は一回しかない。

その年はふたたび腕のケガを負い8勝、1935年には20勝と、最優秀防御率2.70で復活。1938年から4年がかりで、本拠地・フェンウェイパークでは、20連勝をマーク。最優秀防御率に輝いたシーズンは、アスレティックス時代に5度、レッドソックス時代に4度の計9度。

1941年、レフティは41歳。299勝で、足踏みが続く。そのシーズン最後近くになって、待望の1勝をあげ、300勝をあげた。試合が終わって、クラブハウスに戻るや、別人のようにしゃべり、よくはしゃぎ、300勝までの回想をえんえんと話し続けたらしい。引退を決意したときにはじめて、レフティの本性がでたものだろう。

1931年には、日米野球で来日。のちに阪神タイガースの初代主将となる松木謙治郎(当時明治大)は、著書・「タイガースの生いたち―阪神球団史」のなかで、グローブについて、
「ボールがキャッチャーミットに収まってから、振る打者もいるようなありさまで、速球にはいくぶんの自信を持っていた私も、対戦した最初の3打席は三振。4打席目でやっとバットに当てたが、三塁へのファウルフライに終わった」
と記している。このとき、
「グローブ君、投げました。あっ、球が速くて見えません!」
という有名な実況が流れている。

1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)