「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(1)!

「白い糸が閃光のように、こちらへ飛びかかってくる」
速球のあまりの速さから、煙のように見えない「スモークボール」と名づけられた。17年間で、300勝141敗。防御率3.06も見事だが、その通算勝率は、.682はスゴい。2266奪三振。レフティ・グローブこそは、まさに史上最高の左腕投手といえる。

1975年、オハイオ州ノーワークの自宅で、テレビをみているうちに、心臓発作を起こして急死。75歳だった。その追悼記事によると、
「恐るべき気質の完全主義者」
と形容したように、じつに核心をついた指摘だった。

ミズーリ州ロナコニングに、1900年3月6日に生まれた。父は、炭鉱夫。子供は4人で、生活は苦しかった。子どもたちは、幼いころから炭鉱夫の手伝いをさせられ、一日に50セントの日銭をかせいだ。レフティは、やや成長すると、生糸、ガラス工場へ働きにでかけた。

レフティがはじめてボールを握ったのは、驚くなかれ、17歳のころだったのだ。それも、コルクに破れた手袋の毛糸を、テープで巻きつけたボールという代物だった。野球の才能は、やはり隠せない。やがてセミ・プロのミッドランド球団にさそわれた。一塁手だった。

ところが、中継のときなど、じつに早い球を投げ返してくる。監督は、
「投手より、速い球を投げるとは、一体どういうことなんだ? 」
と、投手に転向。20歳のとき、マーチンスバーグ球団に入団、夢のような月給125ドルをもらうようになる。同じ年、ボルチモア・オリオールズのスカウトに目をつけられ、2000ドルのトレード・マネーで買われた。

当時のオリオールズは、インターナショナル・リーグに所属するマイナー球団だった。オーナーは、ジャック・ダン。球界の名物男だった。10年ほど前に、かのベーブ・ルースを発掘し、育て上げたことで有名だった。レフティは5年間で112勝(一説には109勝)を上げ、毎年インターナショナル・リーグの最多奪三振投手になっていた。

アメリカン・アソシエイション球団とのリトル・ワールド・シリーズに出場し、2000ドルをもらうと、郷里にすっとんで帰った。幼なじみのエセルと結婚するためだ。

メジャー・リーグからもオファーがあったが、ジャック・ダンがずっとグローブの放出を拒んでいた。が、25年にフィラデルフィア・アスレチックスが、当時としては史上最高額となる10万500ドルの移籍金を払って、グローブを入団させた。25歳、なんとも遅咲きもいいところだ。

同年4月に、メジャー・リーグ、デビュー。1年目は10勝12敗、リーグ最多の116奪三振と131四球。制球難や、本人の短気な性格も災いし、安定感を欠き、ケガもあって成績は10勝12敗。しかし、リーグ最多の116奪三振。 2年目には13勝13敗、194奪三振、リーグ・トップの防御率2.51(最優秀防御率を記録)。

コニー・マック監督も、そのカッとなる短気に、
「いいか、レフティ、投球する前に10数えるんだ」
と、なんども言い聞かせはしたが、ファンもそれを知ってか、レフティと同じように10数えていたらしい。

が、本人はというと、聞く耳なんてもってやしない。当時の三塁手・ジミー・ダイクスは、レフティが熱くなってきたと思うや、ボールをつかんで、なかなか離しはしなかった。すると、
「おい、そのやけに白いボールを返せよ」
「まあ、待てや、モーゼス(当時レフティは、こう呼ばれていた)」
「そのくそったれボールを返せよ」
「落ち着けよ、オレはお前の親友のジミーだよ」
「そのヘナチョコ・ボールを返せよ」
とまあ、こんなやりとりがあったらしい。やっとダイクスが、マウンドにちかずくや、ボールをひったくったものだ。

4年目の1928年には、初の最多勝利を記録。また、7年連続でリーグ最多の奪三振投手となった。とくに、1930年はセーブ数と、勝率もトップと活躍し、投手三冠王と、セーブ王の同時獲得は、クリスティ・マシューソン以来の快挙。また、チャールズ・ラドボーン以来の、投手主要5部門制覇(投手五冠王)に輝くなど、アスレチックスのリーグ3連覇(1929年~1931年)に大きく貢献した。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)