‘ケンカ屋’、ビリー・マーチン(2)!


マーチンは、イタリアからの移民の子だった。それをあらわすかのように本名は、Alfred Manual “Billy” Martin。熱しやすく、冷めやすいのは、イタリア人気質? 1928年5月16日生まれ。1947年からオークランド・オークスなどマイナーでプレーした後、1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレー。

そのオークランド球団とき、当時の監督がケーシー・ステンゲルだった。それでケーシーがヤンキース監督に抜擢されたあと、かれもヤンキースにもらわれた。

1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースで、メジャーデビューを飾ったマーチン。52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると、53年には打率.257 15本塁打 75打点、ワールドシリーズでは打率.500(24打数12安打)、2本塁打、8打点と大爆発。シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。

ケンカっ早い性格も手伝って、小柄ながら、プレーはハード。それにもまして、ここぞというところで打つなどの勝負強さがあった。大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。その後も57年に打率.289、10本塁打をマークするなど、いぶし銀のプレーでヤンキースをささえ、4度の世界一に貢献。

さても、現役時代からマーチンは、野球の戦術面で、オークス時代からの師匠であるケーシー・ステンゲル監督をはじめ、多くのコーチに教えを請うことが多く、チームメイトのかのミッキー・マントルも、
「あれほど情熱的に野球を教わっていた人間、は見たことがない」
といわしめたほどだ。

1957年、ニューヨークのナイトクラブ・「コパカバーナ」※で起こした乱闘騒ぎ(首謀者はマーチン)により、ヤンキースを追われるようにトレードに出され、その後カンザスシティ・アスレチックス、シンシナティ・レッズなどを渡り歩き、ブレーブス、ツインズと転々として、1961年に現役を引退。(※ミッキー・マントルや、ヨギ・ベラらが、出演者のサミー・デイビス・ジュニアをからかった客との、乱闘事件)

その後は、ツインズでスカウトに転じ、コーチを経て、1968年PCL所属のデンバー球団の監督、1969年にミネソタ・ツインズの監督に就任。

行く先々で、ダメ・チームを建て直してきた。そのツインズ、今度ばかりは無理だろうと見られていた。なにしろ、引き受けたのが、レギュラーの平均年齢が26歳、しかもオーナーは数年前から球団経営に情熱を失っているという、問題のチームだったからである。その時代、まさに首位打者の常連でもあったロッド・カルーにホーム・スチールのコツを伝授し、1年に7回も成功させた彼は、ここでも積極的に走らせたものである。本塁の名人の誕生だった。

しかも、5月28日のロイヤルズ戦1回ウラ、ニ死一・三塁から一塁ランナーがスタート…と思ったら、6,7メートル行ったところで転倒。キャッチャーが、やったとばかり一塁へ送球する。その瞬間、三塁ランナーがスタートし、一塁からの返球より早く、ホームへすべり込んでセーフ。一塁ランナーもすぐ立ち上がって、ニ塁に達した。転倒は、むろん演技だったのである。
「われわれのキャンプ地は、報道陣が少ないから、練習がタップリできたんだ。それにしても
うまくいった。このプレーで大事なのは、2走者とも足が速くないということさ」
と、試合後のマーチンは得意満面であったという。選手を守るためには、退場・罰金を覚悟で猛烈な抗議をするから、頼りになるボスだと選手は心服するものだ。

前年7位の、そのツインズをいきなり優勝に導いたものの、プレー・オフに破れ、グリフィス・オーナーと一悶着。お払い箱となる。しかしながら、ご当地ツイン・シティの両市の酒場では、
「ビリー・ザ・キッド、帰っておくれよ、ビリー・ザ・キッド…」
と、フォークソング歌手が即興の歌を歌ったらしい。マーチンは、人気者だったのだ。

さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝と・・・。手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。

が、当時からのオーナーであるジョージ・スタインブレナーや、1977年に移籍でやってきたレジー・ジャクソンらとたびたび対立し、タブロイド紙は、この当時の球団を、“Bronx Zoo(ブロンクス動物園)”などと揶揄した。個性派の選手達と、ケンカを繰り返しながらも、チームをしっかりコントロールしていた名監督である。

また、ヤンキース時代のエピソードとしては、こんなのもある。ヤンキースはブリューワーズに0対6とリードされるも、9対6と逆転。しかし、9回ウラ、逆転満塁ホームランをくらった。この直前、マーチン監督は、
「セットポジションはやめろ。ワインドアップで投げるんだ」
マーチンは叫びつづけたものの、投手の耳には届かなかったようだ。が、一塁手のシャンブリスが気づき、一塁塁審に、
「タイム」
と告げた。塁審は要求通り両手を上げた。そして、内野に向かって、歩み寄った。だが、そのとき、投手は投げ、そして打たれた。両チームはクラブ・ハウスに引き上げたが、マーチン監督一人だけが、審判に抗議し続けていた。
「タイムをかけたんだろう? 」
「そうした」
「それなら、すべたはその時点に戻すべきだ。そうだろう? 」
すると、監督の主張が通り、試合は続行。今度は、外野フライとなり、ヤンキースの勝ちになって、ゲームセット。マーチン監督、得意げに、
「今度は、あの審判にクリスマス・カードを送ることにしよう」
といったもんだ。

そんなマーチンだけに、ヤンキー・スタジアムで、OB戦がおこわれた年のこと。選手紹介で“背番号1”をつけたピン・ストライプのユニフォーム姿のマーチンがダグアウトを出ると、5万人を越えるファンが総立ちになっての拍手、いわゆるスタンディング・オベーションが3分半も鳴りやまなかったという。

だが、彼はスンナリ出場したわけではない。ヤンキースからの度重なる出場要請にも、言を左右にしていたマーチンは、この日、ニューヨーク入りすると、アスレチックスの選手会長・ニューマンを呼んで告げた。
「どうしても出てくれ、といわれている。しかし、いつも君たちに、自分のユニフォームに誇りを持てと教えてきたオレとしては、たとえお遊びでも、大事な試合の前に、相手チームのユニフォームを着ることに抵抗がある。出るか、でないかの決定を、君たちに任せたい」
と。じつに泣かせる話ではないか。タンに腕っぷしが強く、戦術に通じているだけでなく、人の心をつかむのもうまい。そんな彼の手腕は高く評価されてしかるべきだろう。野球に対する情熱を、有りあまるほどに見せつけたマーチンだった。

選手通算;1021試合 打率.257 64本塁打 333打点。 監督通算;1253勝 1013敗。

参考資料;米大リーグ雑学集(ベースボール・マガジン社)