‘ケンカ屋’、ビリー・マーチン(1)!


「実にカラフルな男であり、議論好きの男である。加えて、試合を活気づけ、チームのテンポを設定させる技量では、他チーム監督に類を見ないと定評がある」
と、当時のヤンキース発行のメディア・ガイドに記されている言葉だ。

本塁打の破壊力と、機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは、「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれたが、現役時代からみられたケンカ早さと、一途ともいえる猪突猛進な性格は数多くのトラブルを生んだ。「ケンカ屋」、「野獣選手」と、さんざん皮肉られたものだ。

マーチンは、若いころ、ボクサーを志していただけあって、そのパンチ力は並外れており、その鉄拳で引き起こしたバーや、クラブなどでの乱闘騒ぎは数限りない。それだけに、自分のいうことを守らなかった選手や、怠慢プレーをした選手などには、容赦なく怒号を飛ばし、ケンカ寸前の罵り合いを演じることも辞さなかった。ある試合で、ある投手に、
「登板せよ」
と命じたところ、相手が、
「ダメです!」
と答えると、
「ダメとはなんだ!」
といい返したところ、相手が胸を突いてきた。そこで、カッとなったマーチンは
たまりかねてアッパーカットをくらわした、という事件もあり、まさにすさまじい。が、その反面、妙な管理体制はとらなかった。門限なども特に設定せず、遊びたいときは、遊びたいだけ遊べと、プレーヤーを大人として扱った。

1975年にヤンキースの監督に就任し、76年のWシリーズで ‘ビッグ・レッドマシーン’と呼ばれたシンシナティ・レッズに4連敗したものの、77年、ドジャースに4勝2敗で勝ち、シリーズを制覇。 とりわけ、レジ ー・ジャクソンの3打席連続HRは、圧巻だった。

そんな愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
No.1;The boss is always right.(ボスは常に正しい)
No.2;When the boss is wrong, refer to rule #1.(ボスが間違っていると思ったら、No.1を見よ)
などと書いた貼り紙をするなど、その激しく、熱いリーダーシップで、チームを牽引。これ、もともとはオーナーのスタインブレナーの部屋にあったもので、これを見たマーチンが、同じスローガンを、自分の部屋に飾ったというもの。

それにもかかわらず、“ザ・ボス”こと、ヤンキースの名物オーナー・スタインプレナー氏とて、容赦しなかったのも、マーチンらしい。

かのレジー・ジャクソンの起用法など、たびたび衝突をくり返し、そのためか解任、招聘の繰り返しで、都合5回も監督をつとめたものだ。たしかに、ジャクソンはパワーあふれるスラッガーだったが、うぬぼれが強く、傲慢で平気でウソをつく。マーチンはスタインブレナー・オーナーが、ジャクソンを加入させたことに、公の席で不満を漏らした。

スタインブレナー・オーナーは、スタッフを頻繁に代えることで、悪名が高かった。1973年から90年までに、監督を19回解任。球団社長を5人、ピッチング・コーチを15人、GMを13人クビにした。火の玉のような監督・マーチンと、暴君・スタインブレナーは、激しい愛憎関係にあり、いい時はチームがペナントレースで優勝。悪い時は、テレビカメラの前で火花を散らせた。
「あんたの一生は殺すか、殺されるか、野垂れ死にするかだ」
マーチンと、スタインブレナーとの奇妙な腐れ縁。これをモジった表現か、
「もう一度チャンスをやろう」
という意味で、映画「オーシャンズ13」で使われてもいたのも、楽しいかぎりだ。

この3人の激しいエゴの塊は、しばしば戦争状態になった。実際のところ、マーチンと、ジャクソンは、全国中継のテレビの前で、殴り合いを演じる寸前までいったのだ。77年にヤンキースがワールドシリーズを制したときには、一旦騒ぎはしずまったが、翌年、マーチンはジャクソンと、オーナーのことを、リポーターたちにこういった。
「一人は生まれつきの嘘つきで、一人は犯罪者(選挙での違法献金で有罪判決)」
マーチンはこれで、監督の仕事を失った。

そんななか、当時のキャプテンだったサーマン・マンソンが、オールスター休みを利用して、自家用機で自宅に帰ろうとしたときに、木に接触する墜落事故で亡くなった一報を、河釣りの最中に、報道陣から聞いたマーチン監督は 、
「お前たちのいうことは、信じない、マンソンが、私に報告に来るまで待つ。それが、ヤンキースだ」
と、釣竿を持つ手を震わせながら、応えたという。 これまた、殴り合い寸前の口論をしたこともある、マンソンだったにもかかわらず…

1989年12月25日、交通事故に遭い、逝去。61歳だった。1990年には、6度目の監督就任予定だった。乗っていたトラックが、アイスバーンで横転。とはいえ、この訃報を聞いたスタインブレナー・オーナーは、驚愕しながらも、
「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」
と、コメント。墓はスタインブレナーのはからいで、ベーブ・ルースの墓と同じ区画に建てられている。

まだまだ、あの度肝を抜く奇襲攻撃を見たかった。野球殿堂入りはまだ果たしていないが、死の3年前になる1986年には、ヤンキースは現役・監督を通じてつけていた背番号『1』を、永久欠番に指定している。

参考; 「米大リーグ雑学」集(ベースボール・マガジン社)ほか。