近代野球最高峰の投手、クリスティ・マシューソン(2)

こんな話がある。ジンクスとは、野球選手に運・不運をもたらすなにものかであり、プロ選手はちゃんと幸運と不運をもたらすジンクスを分類整理しているのであると、マシューソンはいう。ジンクスは迷信の子である。野球選手は、世界でもっとも迷信深い部類に属する。というのも、それが球団にとりつくと、すべての希望はなくなるのである。

いまでは、野球選手の大半は迷信を冗談扱いをする。それは、じぶんの弱みを知られることを恥ずかしく思うからである。しかし、心の底では、ちゃんとジンクスのおきては守っているのだ。マッティのジンクスは、こうだ。

捕手がマスクそのほかの装具を着けているいる間に、三塁手とは絶対にウオーミング・アップをしないということだ。ジャイアンツに入団して間もないころ、回の交代のとき、三塁手相手にウオーミング・アップをした。ところが、次の回に痛打を浴びてノック・アウトされたのだ。このことに関して、常軌を逸するほど偏見を抱くようになり、そのことを人に言われることさえイヤになったという。

さて、さても、1901年から、マシューソンは、その真価を発揮し始める。40試合に登板して防御率2.41、20勝17敗の成績を上げ(うち1勝は、最初のノーヒットノーラン)、ジャイアンツの主力投手の座を射止めた。1902年は、14勝17敗であったが、リーグトップの8完封勝利をあげて、防御率・2.11の好成績を残した。

翌1903年、マシューソンは30勝をあげ、以後3年連続30勝以上、最多奪三振を記録する離れ業をやってのける。ジャイアンツの大エースとして、大車輪の活躍を見せたものだ。その1903年、防御率は、2.26、267奪三振をマークし、最多奪三振のタイトルを獲得。1904年も、33勝12敗、防御率 2.03、212奪三振、翌1905年も31勝9敗、防御率1.28、206奪三振を挙げ、リーグを代表する投手になった。

1905年は、とりわけ最多勝、最優秀防御率のタイトルも手にし、投手三冠王になった。さらに、この年、ワールドシリーズで第1戦、第3戦、第5戦に先発し、3戦で完封勝利を飾る圧巻の投球で、ジャイアンツに世界一をもたらした。じつに、6日間で3完封を挙げたことになり、長い歴史を見ても、大舞台での、このときのマシューソンに匹敵する投球を見せた投手はいない。

1908年には、56試合に登板(先発は44試合)し、37勝11敗、防御率1.43、259奪三振という圧巻の成績を残した。さらに、ノーヒット・ノーランを2度記録。この、シーズン37勝は、いまだに抜かれていないメジャー記録である。投球回数は、なんと390回2/3であり、与四球は42個ということを考えると、抜群の制球力を持っていたことがわかる。しかしながら、この年、優勝はシカゴ・カブスにさらわれた。

それでも、翌1909年には、25勝をあげ、キャリアハイとなる防御率・1.14を記録している。また、1911年から3年間で、74勝をあげ、3年連続、ジャイアンツを、ワールド・シリーズに導くも、またしてもワールド・チャンピオンには手が届かなかった。

1901年から1914年までの14年間で、13度のシーズン20勝をマークしたマシューソン。1916年シーズン途中にレッズへの移籍が決まり、1試合にだけ登板し、1勝を挙げたものの、この年限りで現役を引退。その後、レッズの監督をつとめた。マシューソンが残した数字は、373勝188敗、防御率2.13、2502奪三振。

折しも時代は、第一次世界大戦を迎えつつあり、レッズ監督・マシューソンも、1918年には志願してヨーロッパ戦線に出征。

化学作戦部隊に属して、毒ガスの使用法とそれに対する防御方訓練を受け、ヨーロッパの戦場へと駆り立てられた。一行のなかには、ジョージ・シスラーや、タイ・カッブもおり、いずれも教官として毒ガス・火炎放射器部隊へと配属させられた。マシューソンは、ここで毒ガスを吸引してしまい、肺に障害を負ってしまった。結果として、肺結核を煩ってしまうことになる。

そして、そこには陸軍きっての劣等兵が集められており、スポーツ選手のいうことなら聞くだろうという理由からのものであった。そして、その効果が確かにあり、兵士たちもしぶしぶ命令にしたがっていた。

当時の軍の訓練で兵士たちを気密室に送り込み、マスタード・ガスをはじめ毒ガスを放出するという危険なものがあって、この訓練が、タイ・カッブがいうところの、
「マシューソンを、死に追いやった」
とのことだ。長身で、知性も兼ね備えたマシューソンの人生の幕切れは、とてもはかないものとなった。

帰国後、しかし結核に苦しみ、敵の毒ガス攻撃に遭遇したマシューソンは、帰国して19~20年ジャイアンツのコーチをつとめるが、1923年にはブレーブスの球団社長をつとめたが、その影響で肺結核をわずらって、除隊後も入退院をくり返した。1925年10月、ワールド・シリーズの最中に45歳の若さで帰らぬ人となった。奇しくも、召された日はその年のワールド・シリーズ第1戦が開催される日で、両チームの選手(セネタースと、パイレーツ)は喪章をつけてのプレーとなった。

死後、1936年に野球殿堂が設立された際、マシューソンは最初に殿堂入りした5人のうちの一人となった。また、古巣のジャイアンツでも、マシューソン現役時には背番号がなかったため、当時のフランチャイズであったニューヨークの二文字『NY』として、当時の上司にして監督であったジョン・マグローとともに永久欠番として顕彰されている。

くりかえすが、ワールド・シリーズ3完封勝利。これがニューヨーク・ジャイアンツの大エースであったクリスティ・マシューソンが残した最大の偉業であろう。

生まれ故郷のペンシルバニア州では、マシューソンが亡くなった日の一番近い土曜日を、彼のための祝日としている。

参考; 「米大リーグ雑学」集(ベースボール・マガジン社)ほか。