近代野球最高峰の投手、クリスティ・マシューソン(1)

ワールド・シリーズ史上、最初で、最高の投手は誰なのか。1905年、マシューソンは、いまだに肩を並べる者がいない偉業をなしとげたのである。油の乗り切ったマッティは、長身で、筋骨たくましく、しかもハンサム。若冠25歳だった。

創設間もないア・リーグの覇者、フィラデルフィア・アスレチックスとの一戦だった。奇をてらったマグローの意向もあって、真新しい黒のユニフォームをまとったマシューソンは、7本のヒットを許したものの、無四球、6奪三振をうばい、3-0で完封。ジャイアンツに開幕勝利をもたらした。

雨で1日順延となった第3戦、マグローはマッティを起用。4安打無得点、8奪三振、1四球。9-0で、ジャイアンツは大勝。ここまで、勝敗は5分。アスレチックスも、2完封の勝利だった。

だが、10月14日、わずか一日休んだだけで、またもやマシューソンが登板した。マッティは6安打を許したものの、2-0で、この試合をモノにした。5戦全部が、完封試合。そのうち3試合が、27イニング無失点、打者18人を三振に切って取った類まれなるマシューソンによるものだった。この年、かれは伝説的な投手の一人となった。

mathewson
マシューソンのピッチングは、9イニングあたり1.6個の与四球と、“針の穴をも通す”と賞され、抜群のコントロールを備えていた。そのためか、マシューソンが1試合で投げる球数は、80球前後で終わることが多かった。

また、マシューソン自身が、“フェードアウェイ”と名づけた、右打者の外角へ逃げ去るスクリューボールを、決め球とした。といっても、スクリューボールは、投じる時に、腕にかかる負担が大きいため、1試合で10球前後投げて、速球と、優れたチェンジアップを織り交ぜて、試合を支配していった。

17年間のキャリアのなかで、2年目の1901年に20勝して、翌年は14勝だったものの、03年から12年連続22勝以上し、そのうち37勝を最高に、4度も30勝以上している。12年連続20勝以上をあげ、373勝を188敗、通算防御率2.13、79試合完封勝利、という素晴らしい成績。さらには、2502奪三振を奪い、そのすぐれたコントロールで、与四球は、わずか844であった。

当時のニューヨークの優秀な消防隊にちなんで、熱烈なファンのあいだでは、「ビッグ・シックス(Big Six)」、という愛称で呼ばれたクリスティ・マシューソン(Christopher “Christy” Mathewson)。ペンシルベニア州ファクトリーヴィル出身で、
「クリスチャンの紳士」
とも呼ばれ、1880年8月12日生まれ。歴代3位となる通算373勝を上げた、20世紀初頭の著名な投手である。もちろん、第1回の殿堂入りメンバーに選ばれた。

それと、いまや当たりまえのようにおこなわれている投球後に肩や、肘を冷やすアイシングも、かれがノーヒット・ノーランを記録した試合の後、やってっていたことがはじまりといわれている。野球以外にも、チェスの名人としても有名で、世界チャンピオンと対戦したこともあった。

が、おしくも、そんなマシューソンは、第一次世界大戦に従軍し、軍の訓練で兵士として、気密室に送り込まれ、ほとんど警戒なしに、毒ガスを放出するという危険な訓練に参加した。そのさいに使われたマスタードガスにより、肺をわずらってしまう。終戦後は療養生活を送ることとなったが、療養の甲斐なく、1925年に、結核のため、ニューヨーク州サラナク湖畔の療養所にて45歳で死去した。

プレスビテリアン(長老派)の裕福な家庭で育ち、まさにスポーツ万能で、学業成績も良いという模範的な学生だった。が、母親から日曜日には、登板しないよう約束されていたという。バックニール大学に通い、学級員長をつとめ、フットボールでは、優れたフィールド・ゴール・キッカーとして、むろんスター・ピッチャーでもあった。愛称、“マッティ”の名で、呼ばれた。

されど、1899年に大学を中退。マイナー・リーグのノーフォーク球団と契約。この期間に、スクリューボールを習得したという。1900年、20勝2敗という圧巻の好成績を残し、その7月に、ジャイアンツと、1500ドルで契約する。後に、選手経歴の大半を過ごしたジャイアンツだったが、1年目はすんなりとはいかなかった。というのも、わずか6試合の登板で、0勝3敗と振るわなかったのだ。

ジャイアンツはいったん、ノーフォークに送り返し、契約金の払い戻しを要求した。ところが、「ルール5・ドラフト」(※)で、わずか100ドルでシンシナティ・レッズにひろわれたが、その12月15日に、ふたたびジャイアンツとの、交換トレード。わずかの期間に、ジャイアンツのユニフォームを着ることになった(※ MLB規約の第5条に規定。有望な選手が、マイナーで飼い殺し状態になっているのを防ぐために、チャンスを広げるというのが、その目的)。

それというのも、当時のかれは、たいへん神経質で、負けると、チーム・メートから離れて、一人で泣いていたともいう。それだけに、またメジャー・リーグでの自身の成功に、自惚れ、自己中心的な言動で、チーム内での確執が多く生じていたともいう。ある日、ジャイアンツ・ファンの少年が、マシューソンとあやまって、ほかの選手のサインを求めたさいに、
「きみが、マシューソンにサインを求めなかったのは、良いことだ」
と、チーム・メイトからいわれたこともあった。そんなこんなで、マシューソンは、熱心な誘いを受けていたコニー・マック率いる、フィラデルフィア・アスレチックスへの移籍も考えたという。

しかしながら、翌1902年に、名将ジョン・マグローとの出会いで、投手として大成したばかりか、一人の紳士としても成長し、チーム内での不協和音も解消した。ある試合で、無死満塁のピンチを迎えた時、マウンドに向かってくるマグローに対して
「落ち着いて! こうやったほうが、楽しいんだから」
と叫んで、押し戻し、後続を三者三振に討ち取ったものだ。マグローとの師弟関係は強く、二人は同じアパートに住んでもいた。