道化師、ステンゲル(1)

「遠征先のホテルのバーで飲んで、トグロを巻くのは許されない」
と、禁酒令を出したことがある。そのあと続けて、
「ホテルのバーは、オレが酒を飲む場所だからだ」
といったとか、いわないとか。まあ、そんなケーシー・ステンゲル監督のおハナシをやってみたい。
8496_a
1949年からヤンキース監督として、空前とも、不滅ともいえるワールド・シリーズ5連覇を達成。ステンゲルはヤンキースの監督就任初年度の1949年から53年まで、ワールドシリーズ5連覇、1年おいてから、4年連続リーグ優勝、うちワールド・シリーズ制覇2回。 あと、1960年と、12年間に、なんと10回も優勝しているのだ。

この時に確立したプラトーン・システムなどの戦術が功を奏したこと、むろんヨギ・ベラ や、ミッキー・マントル などの強力なスラッガーたちや、ホワイティ・フォード という好投手を擁していたこと、また当時はまだ軽視されていたリリーフ投手を上手く起用すること、また今でいう先乗りスコアラーの充実などで、大偉業を達成した。

その和製英語であるツー・プラトン・システムは、晩年とはいえ常勝ヤンキースの顔ともいえる、あのディマジオさえ先発メンバーから外したこともあったのだ。これには、いたくプライドをキズつけられたディマジオも憤慨。しばらく、二人の間には冷戦状態が続いたという。

その優れた戦術は、現在の野球界に大きな影響を与えた。それに、残念ながら、現在も存在する、
「監督、またはコーチが、1イニングに2回マウンドに行ったら、投手を交代しなくてはいけない」
というルールは、ステンゲルが試合中、あまりにもマウンドに足を運ぶためにできたルールともいわれる。

そんなかれだからこそ、サインを無視して、ホームランを打ち、意気揚々と引き揚げてきた選手に罰金25ドルを宣告したというエピソードや、キャッチャーにサインを送って無視したら、罰金というエピソードもあるほど、厳格だった。

そうとはいっても、今でもニューヨークの人々に愛されるのは、その実績もさることならが、「ステンゲル語録」でもつくれそうな鋭い機知などからの発言が愛されていた。監督時代につけていた背番号「37」は、12年間監督をつとめたヤンキースと、新設から4年間、初代監督をつとめたニューヨーク・メッツでの「永久欠番」。1966年に、アメリカ野球殿堂入り。

ステンゲルは、ブルックリン・ドジャース(1934-1936)、ボストン・ブレーブス(1938-1943)の監督を歴任したが、成績はかんばしくはなかった。1944年に当時マイナーのミルウォーキー・ブルワーズ、1945年にカンザスシティ・ブルースでそれぞれ監督をつとめた後、1946年にオークランド・オークスの監督に就任、1948年にはパシフィック・コーストリーグで、初めての優勝を果たした。

1938年頃だった。ロクな選手はいないし、球団の金庫にもお金がない。それではってんで、ステンゲルは4万3000ドルを、球団に建て替えてやったことがある。それというのも、ステンゲルは、すでにマイナー・リーグのころから、株を売買し、ことごとく儲けていたのだ。おまけに、夫人が莫大な財産を相続してもいたのだ。そう、うらやましいことにステンゲルは終生、お金には困らなかったのだ。

このころ、新監督を捜していたヤンキースがステンゲルの評判を聞きつけ、1949年に監督に招聘。ステンゲルの非凡な才能に目をつけていたのは、選手時代にステンゲルとチームメイトで、ヤンキースのGMをつとめていたジョージ・ワイス 。 そうはいっても、ニューヨークのマスコミは、ステンゲル採用を疑問視する向きもあり、
「まともな監督はできなくても、道化師はつとまるね。なにせ1930年代半ばのドジャース、40年代前半のブレーブのとき、道化監督として天下一品だったからね」
と、うつけ扱い。でも、当のステンゲルはというと、就任当初、
「このチームは、私が指揮したどのチームよりも問題が少ない」
と、アッケラカンと述べているものの、実際のところ、ヤンキースの監督になってみると、いやはやディマジオをはじめ主力選手が次々とケガで倒れるなど、そうカンタンではなかった。

それでもその年、ボストン・レッドソックス(監督は、前ヤンキース監督のマッカーシー)との、ア・リーグ・ペナントを制する大一番(それも、最終戦)までこじつけた。いろんな思惑がうずまくなか、先発ビック・ラシーの力投でからくも逃げ切ったのだ。このときから、ステンゲル監督は、道化役者の汚名を返上して、メジャー・リーグ優勝監督にいちやく名乗りを上げた。

さてさて、ステンゲルは1908年にマイナー・リーグと、投手として契約。5年のマイナー暮らしののち、1912年にメジャー・リーグにデビュー。ニューヨーク・ジャイアンツで、メジャーNo.1・監督ジョン・マグローのもと左打ちの外野手として活躍。それから26年までの間、”道化師”とも呼ばれ、変わった言動ばかり目立ったが、実際彼ほど試合に精通した者はいなかった。

道化師とも、よくいわれた。それは、すでに1912年のころ、モンゴメリー球団でのこと。ワンサイドになってしまった試合で、センターの守備位置から忽然と姿が消えてしまった。その定位置のかたわらにマンホールがあり、ステンゲルはフタをはずして、中に入り込んでしまったのだ。ほかの連中は、まったく気がつかなかったようだ。ところが、打者がセンター・フライを打ち上げるや、ステンゲルはその穴から、脱兎とのごとく這い上がり、この打球を好捕したそうな。

そんな折、1923年、ワールド・シリーズでヤンキースと対戦した。ジャイアンツの本拠地球場を間借りしていたヤンキースが、ベーブ・ルースの人気上昇につれて、追い立てを食い、ハーレム川の対岸ブロンクスに完成させたヤンキー・スタジアムでの初めての頂上決戦だった。

第1戦、4-4の同点で迎えた9回ニ死から、6番ステンゲルが左中間へ大きな当たり。後に「デスバレー」と呼ばれる深い外野を、打球は転々。その間、快足を生かして一気に本塁を駆け抜けた。なんと決勝のランニングホームランだ。ステンゲルは、第1戦と、3戦に本塁打。が、シリーズには敗退。

1918年以降はパイレーツ、フィリーズ、ジャイアンツ、ブレーブスと渡り歩き、一方で家族のすすめもあって、歯科医を志し、野球の選手をしつつ、オフには歯科大学に通学。ところがどっこい、不幸なことに、かれは左利きだったためか、
「歯科医が使う医療機器は、みんな右利きようにできている。これがしゃくにさわって仕方がない。それで歯科医になる夢を捨てた。どうせ左利きなら、それが珍重される野球界に進んだほうがいいと思って、180度の転向した」
そうな。また、
「抜歯をするのが、あまりうまくなかったな。ただ、母だけはわたしの仕事を愛してくれた。ただし、クリニックの一部の人は、母の見解には賛同してくれなかった」

選手としての通算成績は、打率2割8分4厘、60本塁打、131打点。

参考; 「米大リーグ雑学」集(ベースボール・マガジン社)ほか