メジャー・デビューの1928年、10勝をあげて主力投手となり、1929年には18勝、その5月8日には、ノーヒット・ノーランを記録(ピッツバーグ・パイレーツ戦)。その後は、もちろんメジャーを代表する投手に成長。

キング・カール」・ハッベルは、ニューヨークのアイドルだった。まさしくかれこそは、クリスティ・マシューソンに次ぐご自慢の大投手であり、メジャー屈指のサウスポーの一人だった。武器は、メジャー史上最高の切れ味といわれた、スクリューボールだ。
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「オクラホマからきたこのおとなしい男は、もちろんワン・ピッチ・パフォーマーではない。かれは、一人の打者を歩かせれば、二人半の打者を三振にうち取ったし、そもそも四球は5回に1個の割合でしか与えなかった。かれは、速球で堂々とストライクを奪ったし、カーブボールは完全主義で貫かれる練習により、威力あるものに改善された。だが、スクールボールなしでは、かれは大成することはできなかった。またスクールボールなしでは、メジャー・リーグに上がる日はもっと遅れたはずだ」
と、当時のポップ・プローグ記者が論評している(※ 01)。それに、コラムニストのジム・マレーは、
「ハッベルがスクルーボールを投げるとき、その腕はねじりドーナツのようにみえる」
と、うまい表現をした。そのためか、ヒジにあたえる負担は相当なものだ。前記のブローグ記者によると、
「かれのリストはケタ外れに長く、しかもしなやかだった」
と指摘しているように、それだからこそ出来た芸当だったなのだろう。でも、やはり晩年、ヒジの手術をし、軟骨を除去している(※ 02)。

1933年、1シーズン10シャットアウトを記録し、46イニング無失点記録。7月6日の対カージナルス戦では、延長18回を一人で投げきり、ついに1-0の勝利投手にもなった。

その年、23勝(うち10完封)。308.2イニング(四球はわずか47)を投げ、防御率は1.66と、4部門で1位。46.1イニングス連続無失点。シーズン後のワールド・シリーズでも、ワシントン・セネタースから、20イニング自責点ゼロ、2勝をあげるなど大活躍。シリーズ優勝の立役者となり、ナ・リーグのMVPを受賞した。

翌1934年も、防御率2年連続1位(2.30)。絶頂期の1936年には、シーズン16連勝を記録し、翌1937年と合わした27連勝はメジャー記録。7月17日のパイレーツ戦からはじまった。翌年5月27日レッズ戦までの27試合(先発21勝、リリーフ3勝)で達成。勝敗がつかなかったのは、先発し4回降板した試合と、現在ならセーブのつく2試合のみだった。連勝記録は26勝6敗、防御率2・31と二冠王で、2度目のMVPにも輝いた。

1936年、26勝、勝率.813、防御率2.31で、3部門1位。2度目のMVP受賞。その年から翌シーズンにかけて、24連勝(現在も、MLB記録。先発で21勝、リリーフで3勝)。翌年も、22勝をあげた。また、15年連続の2ケタ勝利をも挙げている。

この年、ヤンキースとの、最初の地下鉄シリーズ、ワールド・シリーズにのぞんだ。そのヤンキースは、それまでの対3チーム相手に4勝0敗と、ワールド・シリーズ通算12戦全勝をやってのけていた。
「ミール・チケット(もうひとつのあだ名 ※03)が、ヤンキースを相手にするまで待つことだな。かれは、きっとやる」
と、ナ・リーグのファンは、つねにこうもらしていたのだ。それが、実現したものの、悲しいことに、ジャイアンツの攻撃力は、ベーブ・ルースはいないといっても、とても強力打線のヤンキースと太刀打ちなんてできやしない。しかし、一泡吹かせることはできる。ハッベルがいたのだ。

ハッベルは、ヤンキースに9回7安打しか許さなかった。8奪三振のなかには、ゲーリック、ビル・ディッキーも犠牲者だ。偉大なるヤンキースに、ついにワールド・シリーズで10年ぶりの敗北を味あわせたのである。ジャイアンツは、初戦こそ6-1と完勝したものの、シリーズ優勝は2勝4敗で、ヤンキースにもっていかれた。

現役生活最後の1943年。すでに、39歳。まぎれもなく誰が見ても、腕の酷使から、ハッベルは終わったとうつっていた。この年、ジャイアンツはどろ沼に落ち込み、5連敗をしてしまった時があった。ジャイアンツ生え抜きの外野手で、一本足のホームラン王だった監督メル・オットーは、ムリを承知で、ハッベルを宿舎に呼び、現状を訴えると、
「おれは何をすべきか、ズバリ言ってくれ。明日の試合に投げようか、連敗をくい止め、ローテーションに入って投げ続けようか」
と、ハッベルは機先を制して、切りだした。そして翌日、対カージナルス戦に久々に登板し、あっさり勝ってしまった。そして、ローテーション入りして、4連勝。これまでもたびたびあったことだが、連敗ストッパー請負人の面目躍如といったところ。在籍、15年。

引退後は、ジャイアンツのマイナー・チームで後進の指導にあたった。1947年には、野球殿堂入り。かれがつけていた背番号「11」は、サンフランシスコ・ジャイアンツの永久欠番。1988年にアリゾナ州スコッツデールで、自動車事故により死去した。

さても現在、オールスターこと、「ミッドサマー・クラシック(真夏の古典劇)」は、毎年7月の第2火曜日に1試合だけおこなわれる。開催地は各チームの持ち回りで、2016年現在30チームあるメジャーリーグでは、地元にオールスターがやってくるのは、「30年に1度の」メジャーリーガーにとっても、ファンにとっても夢の大舞台なのである。
参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)<引用;※ 01、02>)
※ 03;かれはよく、「オレはこの左ヒジで、おまんまを食っているのだ」
すると、ある同僚が、「それじゃ、この左ヒジが、お前のミール・チケット(食券)なんだ」
と、まぜかえした。