オールスター史上に、燦然と輝く不滅の大記録とは? いうまでもなく米球界でスクルーボール(日本では、「スクリューボール」)を一般的に有名にし、名門・ジャイアンツ一筋16年で、通算253勝を挙げた殿堂入りサウスポー、カール・ハッベルの5者連続三振だ。

上と、横からの変幻自在な投球で、左腕投手独特の打者に近づきながら、沈むスクルーボールを決め球とし、
「キング・カール」、
と呼ばれたきっかけは、1934年のオールスター・ゲームだった。かれは、ジャイアンツ入りして7年目、31歳だった。前年の33年、23勝で最多勝利投手。1.66という、おどろくべき防御率で最優秀防御率投手になっている。

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1933年、シカゴで万国博覧会が開催され、そこでシカゴ・トリビューン紙のアーチ・ウォード運動部長は、スポーツ記念行事として、何かいいアイデアがないかと頭を悩ましていた。そんなある日、ある少年から一通の手紙がとどいた。
「カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。そんな夢のような試合が見たいのです」
交流戦は当時もちろんなく、別リーグのチームとの対戦は、ワールドシリーズでしか見られなかったためで、少年の切実な夢でもあった。それは、まさにファンにとって、夢の対決だった。かれは、紙上で猛烈なキャンペーンをおこなった。いまでも、オールスター・ゲームのMVPは、彼の名をとってアーチ・ウォード記念賞が送られている。

少年の一通の手紙からはじまった、そんな第1回目のオールスター・ゲーム。3回にベーブ・ルースがオールスター、第1号ホームランを放ち、ハッベルとの対決に夢がふくらんだが、ハッベルは最後の2イニングに登板。ルースが最終回にベンチに下がったため、残念ながら夢の対決は実現しなかった。

しかし、翌34年、ニューヨークのポロ・グラウンドでオールスター・ゲームがおこわれたとき、ナ・リーグの栄誉ある先発投手はハッベル、ア・リーグの3番打者としてルースが出場。ついに2人の対決が実現し、少年の夢をかなえる瞬間がやってきた。

立ち上がりは、不調。先頭打者・チャーリー・ゲリンジャーに安打、2番・ハイニー・マナシュに四球を出し、無死一、ニ塁のピンチを招き、迎えるバッターは、むろんベーブ・ルース。ついに夢の対決が実現したものだが…

ところが、ハッベルは初球ボールのあと、得意のスクリューボールで2ストライクと追い込み、さらにもう一球投げると、一度もバットを振らずに見逃し三振に切って取った。ルースは、信じられないという表情を見せたものだ。

さらに、ヤンキースでルースと史上最強の3、4番コンビを組む“鉄人”ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスを空振り三振。この間、わずか11球。観客は、大いにおどろいたが、それだけでは終わらない。2回には、アル・シモンズ、ジョー・クローニンを空振り三振に仕留めた。これで連続の5三振。

こんなア・リーグの猛者連中から、5者連続三振を奪ったのだ。のちに5人全員が殿堂入りという大スターばかり。その後、ビル・ディッキーを歩かせはしたが、投手のレフティ・ゴーメッツを、また三振。2イニング、6奪三振。ハッベルは、3回を0点に抑え降板。試合は、その後、そんなア・リーグがそのうさ晴らし(?)かどうか、勝利したものの、史上最高の「スリラー・ディラー」、と呼ばれ、ハッベルは、「キング・カール」、と呼ばれはじめた。

1903年6月22日、ミズーリ州カーセイジ生まれ。育ったのは、オクラホマ州のショーニイだ。綿花栽培の農夫の子で、綿つみもやった。

「この細いからだで、9回投げられるのかな」
と、20歳でマイナー・リーグの投手になったものの、以後5年間5球団を渡り歩いたが、最初は判で押したようにいわれた。その頃、かれはよく、
「ハングリー・ルッキング・カウボーイ(腹をすかせたような牧童)」
といわれたものだ。それもそのはず、長身痩躯で、頬はやせこけていたのだ。

ジャイアンツ一筋でメジャー生活を過ごしたが、プロの門をたたいたのは1923年。マイナーの好成績で1926年春、タイガースのキャンプに参加した。当時の選手兼監督は、“球聖”といわれたタイ・カッブ。その時、カッブは、
「スクルーボールは、肘に悪く、故障の原因になる」
と、投球禁止令を出したことで、結果をのこせず、マイナー暮らしが続いた。

ところが、ビューモント球団(テキサス・リーグ)にいたころ、ジャイアンツのスカウトの目に止まった。そのころから、元捕手の監督・ロバートソンのアドバイスもあって、スクールボールを投げはじめていたのだ。ハッベルは、これを研究し、絶妙なコントロールで、実践で多投してみせた。

「お金はいくらかかっても、この左腕投手を取るべきだ」
と、すぐさま、あの名将・ジョン・マグローに報告。かれは、ジャイアンツに拾い上げられ、球団事務所に出頭した。ひと目見るなり、マグローは、どこをどうみたのか、
「これはいける」
とうなづいたようだ。マグローは、逆にスクリューボールに関して、まったく気にしていなかった。というのも、1900年代初頭にジャイアンツなどで“フェイドアウェイ”の呼び名がついた、左投手のスクリューボールのような変化球を武器に、通算373勝を挙げたクリスティー・マシューソンを間近に見ていたためだった。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)