さて、マントルは、1956年にスイッチヒッターで初の三冠王を獲得し、MLB史に残る快挙となった。通算安打2415、本塁打536、打点1509、OPS(※ 01)977は歴代11位、と、史上最高のスイッチヒッターの名に恥じない成績だった。

MVP3回、三冠王1回、首位打者1回、本塁打王4回、打点王1回、オールスター16回選出、OPSトップ6回、WAR(※ 02)トップも、6回を記録。とりわけ55~59年には5年連続で、WARトップになっており、その時代最高の選手だったのだ。
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通算の打点と、安打数は、後にエディ・マレーに破られはしたが、通算536本塁打は、今もスイッチヒッターとしては最多。なお、マントルは選手生活を64年限りで止めればよかったと、後に語っているが、これは通算打率が3割を切ったことに、コンプレックスを持っていたためだ。

しかしながら、本塁打の飛距離は伝説的なものがあり、球史にのこる超特大の一発を、何本もを記録している。1953年4月17日、ワシントン・セネタース本拠地グリフィス・スタジアムで放った打球は、スタンドを飛び越えて、はるかかなたの場外にまで飛び出していった。

球団広報が巻尺を用いて、飛距離を計測した結果、なんと約172mも飛んでいたことがわかり、この一件以降、大ホームランはテープメジャー・ショットと呼ばれるようになった。ただし、これにはボールが落下してから、転がって移動した距離も含まれており、正確な飛距離ではないともいわれている。

マントル本人が、
「私の野球人生のなかで、最も強烈な打球」
と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャーのカーブをとらえたもので、ヤンキー・スタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。このホームランの飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離しているかがよくわかる。

さらには、左打席から一塁まで3.1秒で到達できた俊足で、ドラッグバントも得意としていた。チームの試合スタイルが変わっていたら、40-40どころか、50-50もできていたともいわれる。ほかにも現役時代は指名打者制度がまだなかった(導入は、1974年)ため、もし導入されていれば、もっと長く現役生活を続けられていただろうといわれている。

それと、もし右打ちのままなら、どうなったろう? と、素朴な質問に、ある記者がマントル本人、周囲の人々にぶつけてみたようだ。

すると、右打ちだけなら打率は上がっただろうが、ホームランは減少しただろうということだった。それは、本拠地ヤンキー・スタジアムの構造にある。

レフト線、ライト線はほぼ310フイートほどで変わりはないが、左中間は430フィートと、右中間は385フィートと、大きな違いが出てくるのだ。右打者にはつらいけれど、投手としては、たいへんありがたく、誰いうこともなく”投手天国”と、異名がつけられていたのだ。

1963年のこと、フェンスに体当たりして、左足を骨折。シーズンの大半を棒に振った。翌1964年に打率.303、35HR、111打点という好成績だったが、マントルらしい成績をのこしたのはこの年が最後。この年のワールドシリーズでも、カージナルスに3勝4敗で敗北。

これ以降、ヤンキースは11年もワールドシリーズの舞台に立つことがなくなってしまった。そして、あの80年代の「冬の時代」へ、「地に落ちた球団」となった。晩年のマントルはケガに苦しめられ、ファーストに守ることもあった。そして、ついに1969年の開幕前に引退を発表したのだ。

そのころ、祖父、父ともに早くして亡くなったために、早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために、飲酒に走り、晩年には二日酔いの状態でバッターボックスに立つこともあったという。結局、その飲酒がマントルの現役生活や、寿命を縮めたともされ、94年に肝臓癌と診断され入院。
生体肝移植手術を受けたが、癌は全身に転移してしまい、翌95年8月13日、63歳で亡くなった。

その死の1か月前、記者会見にのぞんだマントルは、
「私を見ている人は、どうか私の真似だけはしないでほしい」
といいのこしている。ヤンキース一筋の野球人生を過ごしたマントルの背番号「7」は、引退した翌年の69年にヤンキースの永久欠番になっている。

マントルもまた先輩ジョー・ディマジオ同様、多くの作品で取り上げられている。たとえば、スピルバーグの映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』。

トップ・スター2人を起用して、撮り上げた実録犯罪コメディ。レオナルド・ディカプリオ演じる詐欺師の主人公が、
「ヤンキースは、なぜ強いのか知ってるかい?  対戦相手が、ヤンキースの縦縞のユニフォームに見とれているからさ」
というと、トム・ハンクス演じる刑事が、
「ヤンキースが強いのは、ミッキー・マントルがいるからであって、縦ジマに見とれているわけではない」

また、ジム・バウトン著、「ボールフォア」なるヤンキース・ベンチ裏の暴露本がある。マントルについてだが、じつに開放的で、世話好き、なによりジョーク好きときているのは、すでに話した。それよりもなによりも、めっぽうイタズラ好きなのだ。

著者でもあるジム・バウトンは59年にニューヨーク・ヤンキースに入団し、62年にメジャー・デビューして優勝に貢献。かれが新人のころ、7安打7四球で四苦八苦しながら、やっとこさ1勝をあげ、クラブハウスに引き上げてくると、床の上にタオルで通路ができており、それもバウトンのロッカーまで続き、同僚たちが整列しているではないか。凱旋パレードよろしく、初の1勝おめでとうという具合だ。当時のエピソード満載。

※ 01; 出塁率と長打率とを足し合わせた値
※ 02; 選手の総合評価指標

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)