「史上最強のスイッチヒッター」、ミッキー・マントル(2)!


「ルース神話の破壊者? 」、ロジャー・マリスが、今回のサブ・タイトル。前回の続きで、まずは、マントルだ。

68年に引退するまで、ケガとの戦いであった。それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワード(※ 01)は、
「ケガがなければ、史上最高の打者になっていただろう。年間70本も夢じゃなかった」
といった。
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さて、1951年、シーズン後半、ステンゲルがマントルをヤンキースに呼び戻したとき、そのスイングははるかに力強さを増していた。逆に、ある数試合ノーヒットが続いたころ、ステンゲルが、
「気分転換に、バントヒットでも狙ったらどうだ」
と、アドバイスしても、マントルは頑として首をタテに振らず、左右両打席で、体がねじ切れんばかりのフルスイングをやめようとはしなかった。

この年、ヤンキースは優勝。新人ながらも、同じニューヨーク、ジャイアンツとのワールド・シリーズ。が、第二試合のことだ。打球が右中間に飛んだ際に、マントルは外野の芝生のなかのスプリンクラーのくぼみに足をつっこみ、膝を痛め、以後試合には不出場と、これ以降も、こんな具合でケガに泣かされ続けたものだ。

父親・エルビンは、病床に臥せっていたとはいえ、ラジオ放送に一喜一憂。が、よく年、帰らぬ人となった。球界のスーパースターになるのを見ずにさきだったのだ。マントルは、
「残念だ。おやじはオレがどでかいことをやりとげるのを、実際は見なかった」
と、マントルは後年、よく人に語ったといわれる。

さて、翌52年にレギュラーとなり、打率.311、23本塁打、87打点をマークした。55年に、37本塁打で初の本塁打王。以降、3度の本塁打王を獲得する。

56年には打率.353、52本塁打、130打点で三冠王を獲得。132得点、長打率.705、OPS.1.169もリーグ1位となる大活躍をみせ、アメリカン・リーグMVPに輝いた。翌57年は、打率.365、34本塁打、97打点と成績はダウンしたが、2年連続でリーグのMVPに輝いた。

守備でも、当時最高の強肩だった。走塁でも、通算153盗塁。盗塁が少ない時代で、チームもマントルにケガを恐れてあまり走らせなかったこともあり、場合によっては、その倍の盗塁を決めていただろう。打席から1塁ベースへの到達タイムは驚異の3.3秒。500盗塁も、夢ではなかったはず。

1959年12月のことだ。アスレチックスの7人もの選手が、ドン・ラーセン(※ 02)をはじめとするニューヨーク・ヤンキースとのトレードが成立。そのなかに、ロジャー・マリスがいた。両親は、東欧クロアチアからの移民。古き良きアメリカで起こった、まさに不条理極まりないヒーロー攻撃事件。あえて、犠牲者、といってもいい。偶像ベーブ・ルースの破壊者、神話の冒涜者とまで罵倒されたロジャー・マリス、その人だ。

ヤンキースでの初めてのシーズンであった1960年は、ニューヨーク特有の辛辣なメディアからのプレッシャーを他所に、大活躍の年となった。長打率・打点・長打でリーグ1位に輝き、本塁打数でも、マントルに1本差で続く2位であった。素晴らしい守備も評価され、ゴールドグラブ賞も受賞。同年のアメリカンリーグMVPに輝いた。
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移籍3年目の61年、マリスが猛打を炸裂させた。4番マントルとともに、驚異的なペースでホームランを量産。二人が競い合いながらベーブ・ルースの「60本」に近づくホームラン競争に、全米の野球ファンが熱狂した。ここにはじめて、「MM砲」なる言葉も生まれた。

ルースの記録は、まさに「聖域」であった。ヤンキースファンは、ルースの記録を破るのを望んでいなかった。もし破れるなら、マントルにやって欲しい、という考えでもあったのだ。ところが、マントルは終盤に故障で離脱、マリスがルースの記録を更新したのだ。それも、注釈付きの記録で、ルースの記録と並列扱い。公式記録として認められたのは、30年近くもあとのことだった。

それは、マリスにとって苦痛の日々でもあった。チーム生え抜きの大スター、マントルに対して外様あつかいされ、陽気なマントルに対して、地味で人気もなかった。通算100本塁打にも満たないバッターに、記録を破られてなるものか、と非難されたもした。それまで2人の共演に熱狂していた、ニューヨークのマスコミや、ファンがいっせいにマリスにブーイングを浴びせかけた。

脅迫電話あり、剃刀の入った手紙ありの、嫌がらせが殺到。マスコミはといえば、連日のベーブ・ルース賛歌に加えて、ミッキーと、マリスの不仲説をでっち上げて、マリスを悪者に仕立てて、ファンのマリス攻撃をあおりもした。

さらには、コミッショナーまでもが、ルースの時代の試合数154と、1961年どきの試合数162の違いを指摘して、
「ロジャーが61本打っても、それは参考記録でしかない」
と、会見。これに対して、マリスが、
「162試合制の日程は、私がつくったのではない。コミッショナーは、私がルースの記録を破りそうになってから見解を出した」
と、反論したこともあって、マリス・バッシングはさらに激しくなってしまった。ただひたむきにプレーを続けていたマリスは、これらの仕打ちに激しく傷つき、ノイローゼ気味、円形脱毛症になる始末だった。あげくは、
「もう耐えられない」
と、監督に試合出場を拒否する事態にまでなった。が、マリスは気力を振りしぼって、シーズン最終戦の162試合目で61本の新記録になるホームランを放った。が、歴史的な試合にもかかわらず、その日の本拠地ヤンキー・スタジアムはわずか3分の1の観衆(約2万人)しか集まらなかった。

マリスは、数年後にカージナルスに放出され、2年連続の優勝を体験してからひっそりと現役を引退した。最後のニューヨーク遠征には、控え選手として参加したが、地元のファンがマリスの名を何度もコールしても、絶対にグラウンドに出てくることはなかった。

※ 01; ヤンキース初のアフリカ系アメリカ人野球選手。1963年には自己最多の28本塁打を記録し、アメリカン・リーグのアフリカ系アメリカ人として初のMVPに選出された。背番号32は、永久欠番。

※ 02; 1956年のワールド・シリーズ第5戦(対ブルックリン・ドジャース)で、ワールド・シリーズ史上初のパーフェクト・ゲームを達成した。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)