「史上最強のスイッチヒッター」、ミッキー・マントル(1)!


父・エルビンが、当時人気のあったフィラデルフィア・アスレチックスの捕手ミッキー・カクレーン(※01)の大ファンで、「ミッキー」と名づけられたことは、すでに有名である。さらに左利きの祖父と、右利きの父から、それぞれ左右打ちを習得し、生まれながらのスイッチヒッターといわれている。

ワールド・シリーズ優勝、7回。通算18本塁打、40打点は、むろん、メジャー記録。これからも抜かれることはない。
mickey
1951年、19歳の若さで、ジョー・ディマジオの後を継ぐように、メジャー・デビュー。監督のケーシー・ステンゲルに、「フィノメナル」(驚異的)、といわれたことから、
「フィノム」
と呼ばれるようになる。マイナーC級(ルーキーリーグ)での活躍が認められての抜擢だったが、実情は、引退が迫っていた大スター、ディマジオの後継者づくりを急いだヤンキースのフロントによる“青田刈り”でもあった。

かかとに軟骨が出る持病があっても、ヤンキース首脳陣、とりわけ監督・ステンゲルはまさしく一目惚れ。
「これくらい強打で、俊足なスイッチ・ヒッターは、いまだかって見たことがない」
とまでいった。さっそく春の紅白試合に、マントルは出場。そこで、ホームランをふくむ4打数2安打。新人としては、上出来だった。それで、ステンゲルは、開幕試合から起用。そんな前評判の高かったマントル見たさに、球場は超満員。が、出足はよかったものの、他球団にマークされ、当たりが止まってしまった。

マントルは同僚やら、先輩やらに当たり散らし、バットを叩きつけたり、ヘルメット蹴飛ばしたりで、イライラは頂点を迎えたとき、ステンゲル監督はやおら、
「ミッキー、お前は気張りすぎるんだ。マイナーのカンザスシティへ行って来い。少々のんびりして、肩の荷をおろして、行って来い」

そのカンザスシティーに行くついでに、父親・エルビンに相談の電話をすると、父は自宅に寄れという。久々の対面だったにもかかわらず、
「大声で泣き喚かないことも、根性のいることなんだよ」
と、マントルをさとした。若死にの家系で、不治の病の侵されていた余命いくばくもない父親からの、魂のはげましだった。

マントルは、変わった。カンザスシティーでは、まさに不死鳥のように復活した。イライラ病は姿を消し、ジョーク好きな、明朗快活な若者に変貌した。左右の打席では、力強い打球を飛ばし、.356、15本塁打、50打点を打ったものだ。

そんなころのハナシだ。メジャー再昇格をあせったマントルは、初打席で、当時メジャーでも一、二を争うといわれた快足を生かし、バントヒットで出塁したが、それを見た監督ジョージ・セルカーク(元ヤンキース外野手)は、イニングが終わって、意気揚々とダッグアウトに引き上げてきたマントルを、一喝した。
「おいミッキー、ヤンキースはそんなせこいマネをさせるために、お前をここによこしたんじゃないぞ。クリーンヒットを打たせるためなんだ! 」

1931年、オクラホマ州の小さな村スパビノウ生まれ。のち、同州のカマースへ、父の就職先である鉱山会社のあるちょいと大きな街へ引っ越し。ニューヨーク・ヤンキースに入団するまでは、ミシシッピ川の東に渡ったこともなかったという。なおマントルには双子の弟がいたが、素質はあったもののメジャーリーガーになれなかった。

炭鉱夫でもあった父親が、自身セミプロの選手でもあった。それゆえか、息子マントルを、野球選手に育てること。それも、スイッチ・ヒッターにすることを決心した。赤ん坊のころから、野球帽をかぶらされ、5歳からバットをもたされ、あげくは健在だった祖父は左投げだったので、右打ち。父は右投げだったので、左打ちという具合だ。

しかし、本来右打ちのマントルは、右で打ちたくてしかたがない。草野球なんかで、スタンドを見渡し、父親が来ていないと見定めると、相手投手が右投手にかかわらず、右打席にはいろうとしたが、そんなときに限って、
「オイ、ミッキー! なぜ左から打たないんだ」
と、どこやらから父親の怒声が聞こえたもんだ。そんな子供時代は、ホィズ・キッズというチームでプレーし、ショートを守っていた。ヤンキースのスカウト、トム・グリーンウェイドが見に来ていた試合で、右打席で2本、左打席で1本ホームランを打ったこともあった。

ハイ・スクールどき、野球と、フットボールの熱中し、ともに一頭地を抜いていた。ただ、フットボールでのキックの練習中にくるぶしを故障。二週間入院。これが、後年長年悩まされる一回目の記念すべき(?)故障だった。それは、あとあとまでひびく。あちこちにバンテージやら、サポーターやらをしてプレイをし、満身キズだらけのマントルだったのだ。

オクラホマ大学入学後も、野球と、フットボールをやっていたが、父親の希望を入れ、野球一辺倒になる。それには、高校時代のくるぶしの故障の後遺症に、不安があったのも事実だ。

1949年、マイナーのインディペンデンス球団に、遊撃手として入団する。父・エルビンの歓喜の表情が浮かんでくるようだ。翌50年、ジョップリン球団に上がり、51年には早くもヤンキースの一員に加わった。このころは、すでに外野手だった。

※01;歴史上で最強の捕手の一人との評価を受けており、1947年に野球殿堂入り。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)