偉大なるホーナス・ワグナー(2)


1903年からの9年間で、7度の首位打者に輝いたワグナー(1905年、1910年は除く)。このあいだも、毎シーズン50個近い盗塁を記録しており、盗塁王も5回。さらに、100打点近くは、つねにコンスタントに挙げており、打点王にも、5回も輝くなど、すぐれた打撃能力を見せつけたものだ。本塁打に関しては、時代がホームランを求めていなかったこともあり、数は少ない。
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右に、左と強烈なライナーを打ち分け、それに外角球を思いきり踏み込んで打ち込むのは、ワグナーの打撃スタイルを象徴するものでもあった。バッター・ボックスを越え、ホーム・プレートを踏んで、打ってはいけない、というあたり前のルールは、まさに当時のワグナーのスタイルをホウフツとさせるものではないか。

なお、プロ・スポーツ選手と、スポーツ用品メーカーとの契約として、ルイヴィル・スラッガーバットを使用開始したのも、ワグナーが最初。1905年のことだった。これは、余談…

さて、1901年に、パイレーツは、初のリーグ優勝を果たし、1903年まで3連覇。1909年には、初の世界一になった。対戦相手は、タイガースであり、タイ・カッブとの対決に注目が集まった。22歳のカッブに対して、ワグナーは35歳。一まわり近くはなれてはいたが、ともに首位打者の常連ということもあり、注目が集まったものだ。戦前の予想としては、タイガースが断然有利だった。
「二塁はもらう」
と、小生意気なカッブは宣言したものの、その二塁へ、激しくスライディングしてきたところを、捕手から送球を受けたワグナーは、グラブをカッブの顔に向けてタッチしたという。カッブは唇を切り、血が噴き出したが、拭うことなく、すごすごとベンチに戻ったという(後年、ワグナーはデタラメと否定しているが…)。結局のところ、このシリーズは、第7戦までもつれたが、ワグナーは打率.333、6打点、6盗塁を挙げる活躍で、チームを世界一に導いている(カッブは、.231)。ワグナーと、カッブが、選手時代に交わったのは、このときだけである。

39歳になる1913年まで、打率3割を記録し続けたワグナー。その後、打撃面では衰えを見せたが、40歳になっても、身体能力は高く、守備では衰えを見せることなく、プレーし続けた。結果的に、43歳になる1917年に現役を退いている。

1900年から17シーズンを、パイレーツで過ごす。その間、首位打者を8回、打点王を4回、盗塁王を5回獲得するなど、メジャー・リーグを代表する強打の遊撃手だった。生涯記録は、打率.327、3415安打、2792試合出場、723盗塁。

引退後のワグナーは、スポーツ用品店を経営するも、アルコール依存症におちいり、パイレーツが手をさしのべる形で、1933年から、打撃コーチとして現場復帰。それから、19年間も打撃コーチとして籍を置いたのである。ちなみに、永久欠番となっている33番は、コーチ時代のものであって、むろん選手時代には、背番号はなかった。

人一倍優しい性格で、謙虚さを持った人格者として知られるワグナー。ベーブ・ルース登場以前のメジャー・リーグの人気をささえたひとりである。ルイヴィルの若い頃には、あの「疫病神」と、おそれられたボルティモアとの試合。三塁打を打ったところ、三塁まで走るさいに、体当たりを食らわせられたり、足を絡められたりと、そして、あげくは最後のサードで待ち構えていた男はというと、
「ショットガン以外のすべての武器をもって」
ワグナーを待ち構えていたという。かのジョン・マグローだった。

そんなこんなで、あらゆる内野手に邪魔されて、あげくはアウトになってしまった。とぼとぼとベンチに帰ったワグナーを、クラーク監督は一喝。
「バカタレ! あんなやつらにやられて、戻ってくるんじゃない。やりかえせ! 」
つぎに、三塁打を放ったときは、ワーグナーは邪魔する内野手をなぎたおし、蹴散らし、最後は正面から強烈なタックルをかまし、マグローを吹き飛ばしてしまった。ワグナーの面目躍如といったところか。

そんなワグナーだからこそ、たばこのオマケとしてベースボールカードがつけられたとき、子供までタバコを買って、カードを手に入れる風潮を嘆き、自分のカードの販売を差し止めるように依頼。すでに出回っている自分のカードを回収させ、その分の利益も補填したという。それゆえに、ワグナーのカードは、ほとんど出回っていない。その結果として、わずかなカードには、現在のオークションでも、高値で取り引きされており、数年に一度は話題に上がるのである。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)