「スタン・ザ・マン」、スタン・ミュージアル(2)!


投手・スタンにとって、生命を断ち切る悲劇だった。それでも、
「肩に、激痛がはしる」
とは、カー監督にも、口に出さなかった。2日後、とにかく投げ切って、勝利投手にはなった。が、数日後の試合では、めった打ちをくらった。もう我慢の限界を超えていたのだ。このとき、かれはすでに郷里の雑貨商の娘リリアンと結婚しており、お腹には赤ちゃんがいた。
SMusial
「監督、郷里に帰ったほうがいいですね。そして、製粉工場で働き、野球のことを一切忘れたほうがいいですね」
と、カー監督のもとに出向いた。すると、
「スタン、はやまるな。オレのいう通りにしてみろよ」
と、ポンと肩をたたいた。物心ともども面倒を見ていたディック・カー監督のアドバイスのもと、投手を廃業、外野手一本で練習した。肩の痛みは徐々にうすらぎ、スイングする力もスピードも増し、レギュラーの外野で一本立ちするまでになった。スタンに、明るさが戻った。後年、スタンは恩返しとして、カーに豪勢な家をプレゼントする。純情で、人付き合いもよく、後輩の面倒もよく見たスタンは、不遇の時に温情と、激励を終生忘れなかったのだ。

翌1941年、投手失格で、失意のどん底にあった先年と違って、一転飛躍の年となった。打者として好成績を残したスタンは、ジョージア州コロンブスに参加。ここで、ひと悶着が起こる。誤った情報で、投手として登録されていたのだ。

しかし、当時のカージナルス首脳陣にあの「ミスター・リッキー」こと、ブランチ・リッキーがいた。セントルイスのおちこぼれ球団を天才的なアイデアと、行動力で数々の「ファーム球団」を囲い込み、次々に契約した選手を、その自前のファーム球団へと送り込み、王国の建設がはじまっていた。

スタンは、そんな大カージナルスのファームから見出された選手である。そのリッキーが、ミュージアルを打者として、見初めたのだ。後、リッキーはドジャースの会長になり、ジャッキー・ロビンソンを、黒人初の大リーグ入団をお膳立てしたりもした。

持ち前の打撃を買われ、ミズーリ州スプリング・フィィールドに急きょ移籍。外野手・スタンはシーズン当初から、爆発。そのシーズン半ば、3A・ロチェスターに移籍。それでも、スタンの打撃はとどまることを知らない。その後半、ついに念願のメジャー・リーグへと上りつめた。

あまりにも華々しいデビューだった。9月18日昇格後、すぐに出番はやってきた。ボストン・ブレーブスとのダブル・ヘッダーの2試合目に登場。4打数2安打。2つの打点つき。見事な走塁までも見せた。まだまだ、カージナルスには、足のチームの伝統が残っていたのだ。結果、12ゲームに出場し、なんと0.426の高打率を記録。

この年、カージナルスは、リーグ優勝はならなかった。が、スタン・ミュージアルという天才打者を手に入れた。翌年、この新星は、チームに久方ぶりのリーグ優勝をもたらし、マグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツの、前人未踏の大記録であるリーグ3連覇を成し遂げる原動力となる。

1941年から、63年までに残した記録はすごい。首位打者7回、打点王2回、MVP3回、オールスターゲーム出場11回、ワールドシリーズ出場4回。22シズーンをも現役をもつとめ、打率3割3部1厘と輝かしい記録をもっている。16年連続打率3割以上、3026試合出場(895試合連続出場も含む)の記録を持つ。

タイ・カップは一シーズンに、一試合5安打を4回やった破天荒な記録を持つ。これもまた、タイに持ち込むも至難な記録であり、更新されようのない記録の一つだ。が、ミュージアルは、その48年に一試合5安打を3回やっていた。

シーズンも閉幕近く、9月半ばに、痛めた左手首が思わしくない。その22日、対ブレーブス戦を迎える。ミュージアルは、
「寒く、風の強い日だった。風は右方向に吹き、左打者には申し分なかった」
と思い出すも、対戦投手はあの恐怖の投手、まだ27歳、全盛期のウォーレン・スパーンだった。しかし、ミュージアルは、記録を十分に意識していた。左投手に、大打者といえども左打者には、不利だ。それに、スパーンはめっぽう速い球を投げる。
「今日は、徹底してレフトに流し打ちしてやろう」
と、決意した。レフト前安打、左越えの二塁打、第三打席は新人投手に代わっていたものの、レフトへのホームラン。痛みは、耐え切れなくなっていった。が、4打席目は遊撃手の頭を超えた。そして、第5打席目、振りぬいて野手の間を抜けていった。ついに、タイ・カップの記録に並んだ。驚くべきことは、5安打すべてが初球うちだったのだ。
stan
粗野に振舞う野球選手のなかで実に紳士的で、つねに笑顔をたやさなかった。それを誇るかのように、あだ名は「ザ・マン」。当時、エベッツ・フィールドを本拠地にしていたドジャース・ファンがつけたものだ。つねに無敵の投手陣をかかえ、優勝争いをやってのけていたドジャースは、ファンの誇りだった。

一人スタンだけは、違った。そのご自慢の投手陣を、その打撃でたたきのめしたのだ。あまりのすごさに、ドジャース・ファンは感慨深そうに、
「スタン・ザ・マン」
と、つぶやいたのだ。

現役引退後、何度も監督要請があったもの、スタンはそれらを振り切って、後輩のシェーンディーンストらに監督の座をまかせた。そればかりか、球団総支配人の座をも辞退、名ばかりの副会長の閑職にあまんじたものだ。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)