「偉大な彼と対戦して、私はしあわせ者だ。初対戦は2塁打一本を含む2安打、最後の対戦もまったく同じだった。安定性のある打者だったよ」
と、ウォーレン・スパーンは、こう語っている。1940年、ボストン・ブレーブス入団以来、21年間現役としてプレーを続け、通算勝利363勝、左腕投手で歴代1位の記録を持っている。そんな彼とは、なんと18シーズンも、ライヴァルとしてしのぎをけずったのだ。
SMusial
その彼とは、球史に残るカージナルスの英雄・スタン・ミュージアル、その人である。大リーグ・デビューは、華々しいものだった。一昔前、新人で活躍する選手が出ると、
「まるでミュージアルのようだ」
といわれたものだった。戦後のメジャー・リーグを代表する打者が、ア・リーグではテッド・ウィリアムズとすれば、ナ・リーグでは、スタン・ミュージアルだった。

上体をかがめた独特のクラウティング・スタイル、チャンスに極めて強い強打者、そしてリーディング・ヒッター7回という偉大な記録を持つ。背番号6は、カージナルスの永久欠番である。

スタンは、亜鉛鉱山で働いていたポーランド移民の子として、6人の5番目の子供として、1920年に生まれた。赤ん坊のころから、ボールを欲しがっていたという。針金工場で働いていた父母。英語も、ロクに話せなかった父。食うや食わずのの貧困ぶりだった。しかし、母親の祖母をはじめとして、しつけには、とりわけ厳しい家庭でもあった。ミュージアルは、そんな貧困家庭に育ちながら、その気配をまったくといっていいほど感じさせなかった。

ハイ・スクール時。野球と同じく、出色だったバスケットボールで、ピッツバー大学進学を希望した父親と真っ向から衝突。が、母親の説得で、父親はついに折れ、スタンは念願のメジャーを目指すことになる。

また、ハイ・スクールの担任で、ヘレン・クロツ老先生も、スタンのその決定に残念がったものだ。その25年後のことだ。そのクロツ先生が、球場にやってきて、
「スタン、わたしも年でね、たぶんこれが最後の野球観戦でしょう。わたしのために、今日ホームランを打ってくれませんか」
と、そのときスランプ中で、ホームランともご無沙汰だったが、笑ってうなずいた。そして、見事なホームランをかっとばした。ミュージアルは、笑い転げながら、ベースをかけぬけたという。

そんなハイ・スクール終了時の夏、カージナルスと、投手として契約した。それまで投げないときは、外野を守って、投打に大活躍。幼い頃から、スポーツ万能、とりわけ野球は、スタンのお気に入りのスポーツだった。

ハンパぎれを集めてボールの形にしてをもたせた幼いころから、投手希望だった。とりわけ、レフティ・グローブ、カール・ハッベルは、かれのアイドルだった。

15歳どき、大人ばかりの草野球チーム・バルボアのバットボーイになった。そんなある日のこと、主戦投手がKOされたあとに、リリーフにだされ、6イニングで13三振をうばったのだ。

「スタン出場」の声が上がると、小さな移民の町・ドノーラは沸いた。大都市・ピッツバーグの郊外の鉄鋼城下町は、元来スポーツは盛んだった。とりわけ、アメリカン・フットボールは町中で熱狂した。が、スタン一人の出現で、ちょいと異変が起こったワケだ。

さても、17歳のスタンは、マウンテン・ステーツのウィリアムソンに入団し、投手として優秀な成績をおさめた。翌年、ハイ・スクールを卒業したスタンは投手として申し分のない実績を残し、大リーグへの確かな一歩を歩みはじめた。

翌1940年春、フロリダのデイトナ・ピーチに参加。そこで、スタンにとっては、生涯の大恩人にあたる元ホワイトソックスの名投手ディック・カー監督と出会う。

ここでも、投手としてスター投手となるも、打撃にも非凡な才能をみせた。しかし、好事魔多しというか、順調よくすべりだした大リーグへの道をも一瞬閉ざされる出来事が、スタンの身に起こったのだ。

いつものように、投手として投げないときはセンターを守っていた時に、事件は起こった。二死からドライブのきいた打球が、センター前に飛んできた。前進に前進してグラブをさしだして、とんぼ返りで好捕するも、左肩を痛打したのだ。これは、投手スタンの生命を断ち切る悲劇だった。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)