ミスター・ホーンスビー(2)!


その1920年から、ライグリーボールと呼ばれた「飛ぶボール」の使用となった。そのボールに対応するためにホーンスビーは、フリースイング打法をいち早く取り入れた。ボックスの一番後ろに立ち、踏み込んで完璧なレベルスイングで、投手めがけて打ち返す。本塁打を打つなどとは、考えて打席に立ったことはないらしい。人並み外れた高い集中力が高打率を生んだといえる。

そのうえ、レベル・スイングから左右に打ち分ける技術に、パワーと、スピードもあわせ持っていた。1918年と、1919年の打撃成績は一時落ち込むも、1920年にボールの規格が変わり、よりボールが飛ぶようになった。
Rogers_Hornsby_(1925_Cardinals)_3
打っては218安打と、打率.370、94打点を記録、リーグ首位打者と、打点王の二冠を初めて獲得。翌1921年は154試合に出場し、安打数、得点、二塁打、三塁打、打点、打率、出塁率、長打率でリーグトップ。そして1922年、打率は4割、打点は150打点にとどき、それまでの首位打者と、打点王に加えてリーグ最多の42本塁打を放ったホーンスビーは、打撃三冠だけでなく、主要な打撃部門のリーグ1位をほぼ独占。

そんな1920年代前半には、大きく踏み込む打撃スタイルのために、最も苦手にしていた「内角高め」の投球に対し、ホーンスビーがのけぞる姿勢を見せると、審判がボールとコール。
「ホーンスビーが、振らないからボール」
ということ。かれは、審判に文句ひとつもつけなかった。その審判たちも、
「ミスター・ホーンスビー」
とうやまった。また、ホーンスビー自身も、
「審判というのは、ジョブ(生業)をかかえたヒューマン・ビーイングだ。かれらは、選手をやっつけようとしているのではない」
と、常々いっていたという。ホーンスビーは生真面目で、冷静な性格だった。退場処分は1918年に2回があるだけで、それ以後は審判の判定に文句をつけることも、ほとんどどしなくなっていた。大打者としての階段を昇りはじめたのである。

1923年、107試合の出場に終わりながらも首位打者、1924年にはキャリアハイとなる打率.424、これはシーズン最高打率となる。さらに1925年には2年連続となる打率4割超え、143打点、39本塁打で2度目の打撃三冠を獲得。ナショナルリーグのMVPにも選出された。この5年間の平均打率は4割を超えており、ホーンスビーの凄まじさがわかる。

また、1925年のシーズン途中にはブランチ・リッキーの後任として、カージナルスの監督となり、兼任選手としてプレーすることになった。

翌1926年、ホーンスビーは兼任監督として、カージナルスを初めてのナショナルリーグ制覇に導き、ワールドシリーズにも勝利した。ヤンキースとのワールドシリーズでは第7戦までもつれながら、相手のミスもあり、世界一の座に輝いたのである。それまでの活躍もあり、カージナルスの英雄となっていたホーンスビーだったが、この年のオフに待っていたのはジャイアンツとのトレードだった。

その世界一になったシーズンオフに、オーナーのサム・ブレッドンと衝突。契約更改時に、5年間5万ドルの3年契約を要求する。また、それとはべつに、監督就任時に、前任者のリッキーから球団株を1株45ドルで1000株を購入しており、この株を元値の1ドル45ドルで引き取りたいという球団に対し、1ドル100ドルという主張を崩さなかったホーンスビーは、コミッショナーを巻き込んでの大騒動となり、結果的にホーンスビーの主張が受け入れられるという一悶着があったのである。球団側と、対立、衝突した結果の放出劇だった。

やはり持って生まれた性格は、なおらないとみえる。ズケズケものをいうために、たびたびフロントと衝突し、選手間でも味方は少なかったらしい。

結局、この年の12月にニューヨーク・ジャイアンツのフランキー・フリッシュ 、ジミー・リングとの交換トレードが成立。このトレードは、俗に「世紀の大トレード」といわれた。ホーンスビーは、ジョン・マグローのニューヨークへ。

ジャイアンツに1年所属し、打率.361、125打点の成績を残した後、翌1928年にはボストン・ブレーブスへ。ここでも自身7度目となる首位打者のタイトルを獲得、同年オフに、シカゴ・カブスとの1対5プラス20万ドルという破格のトレードが成立、ホーンスビーはシカゴへ。

カブスへ移っても、ホーンスビーの打撃は好調、この年も打率.380、149打点、39本塁打を挙げ、2度目のナショナルリーグMVPに選出。1930年に足の怪我で満足にプレーできなかったことが転機になり、同年ホーンスビーは前任のジョー・マッカーシーの後をついで、カブスの監督に就任。

ところが、ホーンスビーは1932年、シーズン途中の8月に、監督をまたも解任され、カブスから放出された。と、ホーンスビー離脱後のカブスは快進撃を続け、リーグ優勝を飾った。しかし、ホーンスビーの人望のなさか、ワールドシリーズでの分配金は、ホーンスビーの元にはとどかなかったという(ちなみにカブスは、ワールドシリーズでヤンキースの前に4連敗を喫している)。

選手として結果を残せたのは、この年が最後であった。その後は代打での出場が中心となり、出場機会が減っていった。セントルイスへ戻ったホーンスビーは、カージナルスで一時プレーした後、セントルイス・ブラウンズの監督に就任。

しかし当時のブラウンズは、毎年最下位争いを繰り返すだけ。このころ、ミネアポリスで腕を磨いていたテッド・ウィリアムズと出会っている。ホーンスビーは荒っぽく、人づき合いの悪い人物と評判だったが、ウィリアムズによれば、非常に親切にしてくれたという。春季トレーニングの後、よく二人きりで練習をしたと振り返っている。

1942年にアメリカ野球殿堂入りした後、1952年にオーナーのビル・ベックに呼び戻されるかたちで、17年ぶりにセントルイス・ブラウンズの監督となり現場に復帰。1953年までシンシナティ・レッズの監督に就任。

監督業から退いた後も、ホーンスビーはメジャーリーグにかかわり続け、1958年から2年間コーチとしてシカゴ・カブスに在籍、1962年には設立したてのニューヨーク・メッツのコーチとして招聘され、若い選手を指導。メジャーリーグからは退いても、マイナーリーグを転々と過ごし、野球とは関わり続けたホーンスビー。

現役選手を引退した後も、ホーンスビーはタバコや酒はおろか、コーヒーさえ口にせず、あいもかわらず「目が悪くなる」という理由から、映画も見なかったようだ。

1963年1月、皮肉なことに、ホーンスビーは白内障手術の最中に、心臓発作を起こし、66歳の生涯を終えた。セントルイス・カージナルスでは、背番号が無い時代の名選手として、欠番扱いとなっている。終わりにあたって、ユーモラスなエピソードがのこっているので紹介しよう。ある試合で捕手が、ホーンスビーをかく乱するために、大好きな「ステーキ」の話を持ちかけたという。
「女房が、いい牛肉を見つけたんだ」
「あ、そう」
「ストライク・ワン」
「うちの女房は、ステーキをつくるのがうまいんだ」
「それは、いいね」
「ストライク・ツー」
「今度、わが家でごちそうするよ」
「ストライク・スリー」となるはずが、
「カーン」
と、音を立ててボールは、左翼席へ飛び込んだ。ベースを一周してきたホーンスビーは、
「いつ、ごちそうしてくれる? 」
と、ホーンスビーはたずねた。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)