”史上最高の右打者”と呼ばれる、ロジャース・ホーンスビー。“史上最高のセカンド”という2つの称号をも得て、1937年に23年間のメジャー生活にピリオドをうった。ファンからは、インド語で王様という意味と、名前のロジャースが似ているということから、「ラージャ」とも呼ばれた。
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首位打者7回、三冠王に2度輝く。通算打率.358は、タイ・カッブについで歴代の2位。1924年の打率.424は、20世紀のナ・リーグ最高打率として、いまでも燦然と輝いている。ついで、1922年に打率.401、42本塁打、152打点で三冠王、1925年も打率.403、39本塁打、143打点で2度目の三冠王で、MVPに輝く。

もう一つ、「ミスター・ブラント」という芳しくない通称も、あるにはある。”ミスター・ぶっきらぼう”という意味だ。「世渡りベタ」といわれるほど、お世辞と、外交辞令のヘタな男もいなかったようだ。

とりわけ、こと野球に対しては、厳格すぎるほどの姿勢と、思ったことをズケズケいう性格から、周囲とアツレキを生むことも、めずしくなかった。それが災いしたのだろうか、1937年に引退するまで、5チームを渡り歩いた。その2度の三冠王は“打撃の神様テッド・ウイリアムズ”と、ただ2人だけなのだが、この”ぶっきらぼう”もまた、ともに似ているところがおもしろい。

それとともに、酒や、タバコに手を出さないのはもちろん、読書なども目が悪くなるという理由で手を出さなかった(シーズンオフには、読書をしたらしいが…)。それはといえば、
「酒、タバコはからだによくない」
と、たった一言だけを聞いて、その場でやめてしまったのだ。映画も見ることがなかったのも、目への影響を考えてのものである。唯一ともいえる趣味は競馬であり、相当のお金をつぎ込んでいたとのこと。競馬仲間からお金関連で告訴されることもあるなど、意外な一面も見せている。

テキサス州の酪農家の家に生まれた。学生時代に野球の才能を発揮し、18歳になった1914年には、マイナー・リーグでプレーをはじめた。そのころショートを守っていたホーンスビーは、ガリガリの選手であり、あきらかに力不足だった。この年、1914年は113試合に出場し、打率.232しか記録していない。翌1915年も、119試合の出場で打率.277と結果はのこせないでいた。

しかし、そのシーズン終盤、19歳の時に、マイナーのウェスタン・アソシエーションリーグに参加していたデニソンという球団から、セントルイス・カージナルスに入団。

それというのも、テスト入団でプロ入りはしたものの、マイナー生活のなか、あるスカウトが、たいしたことのない遊撃手に目をつけた。それが、ホーンスビーだったのだ。そのスカウトは
「この若者が将来活躍しなかったら、契約金を私の年棒から引いてくれ!」
といいきり、セントルイス・カージナルスへ引き上げられたのだ。ファーム体制の充実をはかっていたカージナルスのスカウトの目に、引っかかったのである。契約金は、破格の500ドル。

その15年の後半に、大リーグデビュー。18試合に出場するも、ミラー・ハギンス監督は、そのオフ、ホーンスビーに命じたのは、体重の増加と、打撃フォームの修正だった。というのも、身長は6フィートだったが、体重が135ポンド(61、2キロ)しかなかった。
「お前に、オフ・シーズンの宿題を出そう。来年2月、出頭するまで1ポンドでもいいから太ってこい。大リーガーとしてのこりたいなら、それではムリだ」
それからというものの、さながら連日食いまくった。三食にステーキ、ミルク、チーズ、ジャガイモなど、体重を増やすためならなんでもやった。そして、翌年、出頭した時は、165ポンド(74.8キロ)に増えていた。それでも、ホーンスビーは満足せず、増量作戦は続いた。そして、200ポンド(90.7キロ)に達し、以後この体重を維持つづけたのだ。これぞ、プロだ。

結果は、すぐに現れた。その1916年には、レギュラー選手として139試合に出場。打率.313、15本の三塁打をマークするなど、長打率は.444。翌1917年に145試合に出場し、リーグ2位となる打率は.327と、さらに上昇し、三塁打17本はリーグ最多、リーグトップの長打率.484。

カージナルスには遊撃手として入団したが、内野はどこでもこなせたようで、2年目の1916年には、一塁から三塁まで内野の4つのポジションすべてをこなし、1917年には、遊撃手として、当時のメジャー記録にならぶ1試合14補殺という守備記録も打ち立てている。ただホーンスビーは、高く上がったポップフライを捕るのが苦手だったようだで、背走したり、真上を向いたりしたさいに、平衡感覚に異常が生じるためだったらしい。

打席に入るホーンスビーは、バッターボックスの一番後ろのベースから、遠い角に立って構え、そこから大股で内側へ大きく踏み込みながら、完璧なレベルスイングで、強烈なラインドライブを右に左に打ち分けた。走塁も、速かったためか、多くの打球が単打で終わらず、二塁打や、三塁打になった。

1920年、セカンドに定着したホーンスビーは、149試合に出場し、打率.370、9HR、50打点という成績を残し、首位打者と、打点王のタイトルを獲得した。安打数(218本)、2塁打数(44本)はいずれもリーグトップの記録。この年から、ホーンスビーは6年連続首位打者に輝くなど破竹の勢いをみせるが、この年はまた、ベーブ・ルースがシーズン54HRを記録するなど、新しい時代がはじまろうとしていた矢先でもあったのだ。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)