他人の生き方に影響を与えてこそ、人生は意味を持つ。ジャッキー・ロビンソン(3)


ロビンソンの置かれた状況は、ひどいものであった。対戦チームのみならず、他チームからはブーイングの嵐。なかには、
「ドジャースとの対戦を拒否する」
といった監督もいた。
「黒ん坊、ジャングルに帰れ」
など、人種にからむカズかぎりないイヤみな悪口、黒いネコを放されたり、家族を殺すという脅迫状まで届いたりした。あげくは、ある観客からは発砲までされた。
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メジャー昇格後、ロビンソンの調子は、じつのところ最悪だった。最初の一週間というもの、不振が続き、ロビンソンですら、自分の実力に疑いを持ちはじめた。さらには、それに追い討ちをかけるかのような出来事が待ち受けていた。フィラデルフィア・フィリーズとの3連戦の初戦だった。

ロビンソンが、最初の打席に向かうさいに、ののしりと、侮辱の言葉が一斉におそいかかってきたのである。
「自分の耳が信じられなかったよ。まるでたくみな指揮者の合図に合わせるかのように、ダグアウトから憎悪の言葉が飛んできたのだから」
さしものかれも、このような攻撃にさらされて、なすスベがなかった。
「フィリーズは、このオレをどうすれば気がすむんだ? 右の頬を殴られたら、左の頬を差し出して。これじゃ、オレは人間とは呼べないじゃないか。オレは、やつらのグアウトにかけ寄って、やつらの頬を、やつらが嫌うこの黒いコブシで殴りつけることだってできるんだ」
かれは、大きく深呼吸をして、気をしずめ、バッティングに集中した。その時だった。

ドジャースの選手の一人がダグアウトから乗り出し、フィリーズのダグアウトに向かって、
「おい、聞けよ、臆病者ども!」
「お前たち、どうして言い返せるヤツに向かって、ヤジを飛ばさないんだよ!」
さらに、もう一人の選手も叫んだ。
「お前たちのチームが、口と同じくらい野球がうまかったら、もっと強いチームになれるのにな!」
フィリーズの汚いやりクチが、まさかにロビンソンをチームの一員にするという偉業を成し遂げてしまったのだ。

チームは、汚いヤジにさらされても、なすスベもない一人の黒人を助けるために、団結しはじめたのである。リッキーという頭のいい男が、どんなに知恵をしぼっても不可能だったことを、チームの連中はやってのけたのだ。そして、ついに偏見のカベをとっぱらってしまったのだ。

ある試合でも、ロビンソンが守備についている時、観客から憎悪のこもったヤジが浴びせかけられた。
「南部の紳士がどうして黒人なんかと、一緒にプレーできるのか?」
と。その言葉に、チームメイトは、行動をもってこたえた。ロビンソンに歩み寄り、親しく話しかけ、そして、肩に腕をまわした。観客は、それを見るや、黙ってしまったという。

ロビンソンをとりまく状況は、急速に変わりつつあった。チームメイトは、どんなにかれとチームがなじんでいるかを、アピールしはじめた。そのうち、世間から憎悪をむき出しにされても、それをものともせずにプレーし続けるロビンソンに、他チームの選手ですら、敬意を感じはじめたのである。

1年目、151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残した。シーズンが進むにつれてチームメイトはロビンソンを認め、シーズン終了後には、だれもが認めるドジャースの選手となった。そして、ドジャースは、みごとにリーグ優勝を飾る。

シーズンが終ったとき、その年に新設された新人王に選出されたのだった。新人王が、別名ジャッキー・ロビンソン賞といわれるのには、それはロビンソンからはじまったのである。

1949年には、156試合の出場で、打率.342、16HR、124打点、37盗塁と好成績で、首位打者と、盗塁王の2つのタイトルを獲得した。このはなばなしい活躍により、ドジャースは2年ぶりのリーグ優勝を飾った。MVPも受賞。

ロビンソンはこの年以降、6年連続で、打率3割以上をマーク。そして、1955年にはロビンソン自身、5度目のワールドシリーズにして、ついに世界一の味も味わったものだ。

しかし、55年、36歳のロビンソンの打率は、.256までに、出場試合も105試合に落ち込む。翌56年も、じつに不本意な成績に終わる。この年、ドジャースは、日米野球で来日。ロビンソンは2本塁打を放ち、日本のファンにハツラツとしたプレーを見せた。

しかし、帰国後、かれを待っていたのは、ジャイアンツへのトレード通告であった。悩んだロビンソンは、翌57年1月、涙ながらに引退会見。
「ドジャースこそ、わが命。ドジャースと別れるくらいなら引退します」
と、10年間の短いメジャー生活の終わりを告げた。それには、1954年から新監督となっていたウォルター・オルストンとの不仲が原因ともいわれている。

ロビンソンの選手としての戦績は、メジャーにおける歴史的ともいえる選手とはいいがたい。それでも、生涯成績は、
「試合数:1382 安打:1518 本塁打:137 打点:734 盗塁:197 打率:.311 」
と、十二分に存在感を示している。

だが、かれの功績は、そんなものでは、とてもはかりきれない。引退後のロビンソンは、人種差別問題に取り組み、球場に足を運ぶことはあまりなかった。1962年に、メジャー殿堂入りを果たした。

ロビンソン一人の力では、むろん人種差別のカベは破れなかったであろう。まわりの反対をよそに、契約をおし進めたブランチ・リッキー。オーナー会議で、15対1で反対されながらも、ロビンソンがプレイすることにGOサインを出した、コミッショナー、ハッピー・チャンドラー。対戦拒否の場合は、出場停止処分に処すと強硬な態度をつらぬいた、ナショナル・リーグ会長フォード・フリック。かれらのうち一人でもいなかったら、ロビンソンはもちろん、黒人選手がメジャー・リーグでプレイすることはなかったかもしれない。

参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)