ジャッキー・ロビンソン(2) 他人の生き方に影響を与えてこそ、人生は意味を持つ。

1945年8月28日、ロビンソンは、ブランチ・リッキーと会った。かれは新チームの選手として呼ばれてきたと思っていたが、黒人初のメジャー・リーガーを探しているのだという真の目的を知らされる。
「あなたは売られたケンカをかうのを恐れるような選手が欲しいのですか?」
と訊いた。するとリッキーは、
「どれだけひどい仕打ちを受けようとも、報復しないだけの勇気を、きみは持っているか?」
と、逆に尋ねてきた。ロビンソンは、この言葉を生涯忘れなかったという。
「この冒険に賭けてくれるのでしたら、ぼくはなにもモメ事を起こさないと約束できます」
すると、リッキーは、
「これからの戦いは、並大抵なことではないんだよ、ロビンソンくん。われわれには、軍隊はない。それどころか、味方がないのも、同然だ。オーナー、審判はもとより、新聞記者のなかでも、われわれの肩を持ってくれるものはほとんどいないだろう。多くのファンを敵にまわす恐れもある。苦しい立ち場になることは、間違いない」
と答えた。いまや歴史の重い扉が、開かれる日がおとずれたのだ。
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ロビンソンは、1946年、ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズへ入団。打率.349、155安打をマーク、チームの優勝に大きく貢献した。しかし、人種差別が根深い南部の州では、出場すら許されず、本拠地以外の観客は、かれにむかって罵詈雑言を投げつけた。相手チームの選手が、黒ネコを投げ込み、
「お前の親戚がいるぞ!」
となじったりもした。遠征先のホテルでも、チームメイトと別に泊まることもあった。それでも、ロビンソンはリッキーとの約束を守り、不屈の精神力で耐え抜いた。故意のスパイクで、ユニフォームが裂け、流血したこともあったが、ロビンソンはつねに紳士的な態度をとり、そのプレイでまわりを黙らせていった。

シーズン最初の試合で5打数4安打、4得点、3打点、2盗塁で観客を大いにワかせ、遠征を終えた。そして、地元モントリオールに帰ってくるまでに、12試合のうち10試合でヒットを打ち、17得点を挙げ、チームが首位を走るのに貢献したのだった。ついには、マイナー・リーグの覇者を決めるリトル・ワールド・シリーズにコマを進めるのに多大な貢献をしたが、事態は、最悪の急展開をむかえることになった。

対戦チームのルイヴィル・カーネルズの主催試合で、黒人ファンの入場者制限をおこなったために、緊張が高まりはじめた。観客は、ロビンソンに憎しみのこもったヤジを浴びせかけた。試合では、1本のヒットしか打てないロビンソン。あげくはチームも、1勝2敗として追い込まれてしまった。

モントリオールのファンは、ロビンソンがルイヴィルで受けた仕打ちを聞いて激怒する。やがて、ルイヴィルがモントリオールにやってきた時、ロビンソンを応援しようと大勢のファンが押し寄せた。ルイヴィルのバッターが打席に立つたびに、今度は逆に一斉にヤジを浴びせかけた。
「この種の仕返しをいいとは思わない。でも、ああいう形でもファンが気持ちをあらわしてくれたのはうれしかった」
と、ロビンソンはふりかえったものだ。ロイヤルズは、反撃を開始。チームは3連勝し、優勝を決めた。観客はロビンソンの名前を叫びながらフィールドになだれ込み、ロビンソンを肩にかついで、フィールドを一周した。地元のスポーツ記者サム・マーディンは、
「白人の群集がリンチしようとおもってでなく、慕っているからこそ、黒人を追いかけるのは、多分史上はじめてのことだろう」
と、いみじくも語った。試合後。クラブハウスで、リッキーに、ロビンソンを外してくれと、たのみ込んだクレイ・ホッパー監督は、
「きみは素晴らしい選手だ、しかも立派な紳士だ。きみがチームにいてくれて、本当によかった」
と感謝した。

1947年、ついに念願のドジャースへ昇格した。はじめてメジャー・リーグに黒人選手が登場したということで、反発は非常に大きく、それは対戦チームのそれより、一緒に戦うチームメイトがひどかった。ブルックリンの何人かの選手は、ロビンソンを受け入れられず、ロビンソンがチームに加わるのならプレーしないという請願書をリッキーに提出したのである。

リッキーは、激怒。すぐさま、サインした選手らを事務所によびつけ、破棄しないのならば、解雇すると怒鳴りつけた。この請願書は取り下げられたが、リッキーは偏見と、侮蔑がいかに根深いものかを思い知らされることになった。

4月15日、ロビンソンは本拠地・エベッツ・フィールドでのブレーブス戦に2番、一塁手で先発。球場には25000人以上の観客が集まり、その半数以上は黒人だった。

参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)。