ジャッキー・ロビンソン(1) 他人の生き方に影響を与えてこそ、人生は意味を持つ。


メジャー・リーグにうず巻く人種差別、侮蔑と、偏見に対して、勇気と、信念をもって立ち向かった一人の男がいた。

その男の名は、ジャッキー・ロビンソン。1997年4月15日、場所はニューヨーク、シェイ・スタジアム。クリントン前大統領、セリグ・コミッショナー、そしてレイチェル未亡人も参加したセレモニーがあった。かれの背番号“42”は、全球団で永久欠番になる、と発表された。この年、全球団は、ユニフォームの袖に、かれのメジャー・デビュー50周年のパッチをつけてプレーした。そのかれは1972年、交通事故で不慮の死を遂げた。
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1919年1月31日、ジョージア州で生まれたジャッキー・ロビンソンが、その男だ。ジェリー・ロビンソン、マリーの5人の子どもの末っ子だった。子どもたちに少しでも恵まれた環境を与えるために、蒸発した父をのぞき、一家はカリフォルニア州パサデナに移住する。が、そこは、白人たちの住む郊外住宅地だった。近所に住む白人たちから、イヤがらせを受け、立ち退き要請までも出た。しかし、子供たちに負けてはいけない、といいきかせ、マリーは家政婦として働いた。

それでも、ロビンソンは非行の道にはしった。不良たちと付き合い、しばしば警察沙汰となる。でも、近くに住む、すばらしきおせっかい焼きの機械工・アンダーソンが目を光らせていてくれたおかげで、かれはそんな悪行から逃れていった。
「このまま不良仲間と付き合っていたら、お母さんを悲しませることになる。君がこれまでやってきたことは、人に追従することで、それは誰にでもできることに過ぎない。大切なのは、個性を発揮することなんだ」
と、いいきかせた。カール・ダウンズ牧師の影響もあった。一家の牧師であり、友人として力を貸してくれた。やがてロビンソンは、教会の日曜学校での先生役をかって出るまでになった。

ロビンソンは、高校で、スポーツ選手として頭角をあらわした。陸上競技、野球、フットボールなどで活躍する。バスケットでは、2年連続のリーグ得点王に。陸上競技では、走り幅跳びでは、兄の持つ全米記録を更新。フットボールでは、国内有数のランニングバックとして活躍した。むろん、ベースボールでも大いに才能を発揮した。

しかし、学位をとっても、職を得るのに、なんの役にも立たない。あげくは大学在学中に第二次世界大戦がはじまったこともあり、軍隊に入隊。大学を出て1年後、陸軍に招集されたものの、そこで待ち構えていたのは、またもや人種差別的待遇だった。仕官学校への入学は、認められていなかった。ライリー駐屯地に配属されていた元世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・ルイスにこの問題を訴え、やっと仕官学校に入学できた。

そのころロビンソンは、駐屯地の野球チームに加わろうとしたことがある。後に、ドジャースでチームメイトとなるピート・ライザーが、たまたまその場に居合わせた。
「ある日、黒人の少尉が一緒にプレーしようとチームにやってきた。ある仕官が一緒にやることはできないよ、と言った。そして黒人チームなら君を入れてくれるよと、かれに言った。それは冗談だった。黒人チームなど基地にはなかったのだ。その黒人少尉は何もいわなかった。かれは我々が練習するのを見ながら、そこにしばらく立っていた。そして背を向けて歩いていった。その時は、誰だか知らなかった。けれど、あれが私が初めてジャッキー・ロビンソンを見たときだったんだ。今でも歩き去っていく姿が、目に浮かぶよ」
と振り返っている。メジャーリーグは白人のリーグであり、黒人はニグロ・リーグを形成していて、そこでプロとして、野球をやるしかなかったのだ。

そこで、ニグロ・リーグの名門カンザスシティ・モナークスへの入団をすすめられ、戦後モナークスへ入団。それも、決して楽なものではなかった。でこぼこだらけの道を、バスで遠征した。黒人を泊めてくれないホテル、食事を出さないレストランが多かったので、かれらはバスの中で食事をし、寝泊りした。しかし、そのころ、かれのあずかり知らないところで、かれの人生を一変させることになる、ある計画が進行していたのだ。
それは、ブランチ・リッキーが仕掛けた。かれは、すでに野球界における最もすぐれたマネージャーとして、高い評価を受けていた。その後のメジャーのシステムの根幹をなすファーム・システムを確立したのだ。かれの目的はただ一つ、黒人選手を登用することにあった。

リッキーがまだ、大学の監督をしていた時代にさかのぼる。チャーリー・トーマスという黒人の一塁手がいた。遠征先のホテルで、黒人であるという理由で宿泊を拒否されてしまう。リッキーはホテルの管理人に頼んで、自分の部屋にトーマスが寝るための簡易ベットをいれてもらう。それは当時、宿泊客に同伴する黒人召使のために、ホテルがよくやっていたことだった。その晩遅くのことだ。リッキーはトーマスがまるで自分の肌の黒い色をこすり落とそうとするかのように、両手をこすり合わせて、泣いているのを目撃する。
「黒い肌、黒い肌」
と、泣きながらそういっていた。
「この黒い肌を白くすることさえできたら、自分もみんなと一緒に扱われるんです。そうでしょう? リッキーさん? 」
リッキーの心は、大きく動いた。
「私は、誓ったんだ。チャーリー・トーマスが経験したような屈辱を、ほかのアメリカ人が味あわなくてすむようにするために、自分のできることなら何でもしようと」
2代目のコミッショナーであったチャンドラーも、黒人選手への門戸を開こうとしていたのだ。が、各チームのオーナーは、これに猛反対。唯一理解を示したのは、ドジャースのブランチ・リッキーだけだった。

そのリッキーは、当時ドジャースのスカウトをしていた、ジョージ・シスラー(※)に、
「メジャー・リーグでも通用する力をもち、たとえ周囲から苛めにあっても、耐えられる強い意志を持った黒人選手をスカウトしてくるよう」
と指示した。新しい黒人チームをつくると偽って、全米にスカウトを派遣し、有望な黒人野球選手をリストアップさせたのだ。

黒人に対しての反発が大きいご時世を考えると、極めて慎重に動かなければならない問題である。とりわけ一番最初の選手で失敗すると、後々にまで影響を及ぼしてしまうため、より慎重に動かなければならない。とうとうその条件を備えた人物を発見する。自己を十分に律し、しかも強烈な競争心をもつ男を。かれこそが、ジャッキー・ロビンソンだった。

かれをモナークスからスカウトするのにあたり、シスラーは身辺調査を徹底的におこない、その上で自信を持って、ブランチ・リッキーにジャッキーを推薦したのだ。

※愛称は、「ゴージャズ・ジョージ」。2004年にシアトル・マリナーズのイチローに抜かれるまで、シーズン257安打のMLB記録を持っていた。

参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)