ゲーリック、その偉業。


「今日は、休ませて欲しい。もう十分考えました」と、大ヤンキース主将・ゲーリックは、1939年5月2日、ジョー・マッカーシー監督に、こう申し入れた。

この日を限りに、「アイアン・ホース」とあだ名され、そのあだ名に値する前人未踏の2130試合連続試合出場はピリオドをうった。
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いわゆる「ゲーリック病」と知られるALS(筋萎縮性側策硬化症)が原因だ。専門家によると、ゲーリックがヤンキース入団時より、進行が始まっていたともいう。

引退時の年、球を追えないゲーリックを観衆は目の当たりにした。その前年、ゲーリックは入団以来初の3割をきった。かれらは不調が続いているように錯覚してはいたが、その言葉だけで片付けられない「何か」をようやく感じ取った。

1903年、ドイツ系移民の長兄として、ルー・ゲーリックはニューヨークに生まれた。父は飾り職人。家庭は決して豊かではなかった。でっかい体にいつも同じボロをまとい、そのくせおだやかで、ニコニコと笑顔をたやさない少年であったらしい。それが、周囲のものには、ちょいと「うすのろ」にうつったようだ。

そのゲーリック、スポーツ、とりわけ野球に関しては出色だった。「建築家になれ」と、両親の厳命もあり、名門コロンビア大学に入学するも、野球はすでにプロの域に達していた。あの大監督・ジョン・マグローが、大いに関心を寄せていたともいう。

そんな折も折り、両親がともに突然倒れたのだ。彼は大学を中退し、以前から誘いを受けていたヤンキースに入団することになる。そのさいの契約金は、すべて両親の入院費用となった。

1年目は、マイナーのハートフォード球団との往復。2年目になって、やっと定着。名将ミラー・ハギンスのお気に入りとなりはしたが、代打ばかりの出場機会が続く。そんなある日、チャンスが突然舞い込んできた。レギュラーの一塁手が頭痛を訴えたのだ。

「でっかい、ぶきっちょな男をためしてみよう」
と、ハギンスは初の先発出場をゲーリックにあたえた。ゲーリックには、その一試合で十分だった。彼の攻守で魅せたプレーには、素晴らしいものがあった。もうはずせない。

それ以来、彼は足掛け14年間、ヤンキースの主砲として、全試合出場することになる。あやうく連続出場が途切れそうになったときがあったが、なんとショートを守り、難をまぬがれた。まあ、これは余談。

その翌年、待望のルース3番、ゲーリック4番の黄金の「ワン・ツーパンチ」が誕生。しかし、全米の野球ファンの注目を浴びるルースに比べ、なんともゲーリックは不運な男だったことか。それが不思議とゲーリックの野球人生につきまとうことになる。大記録をつくったと思いきや、大事件が発生し、ゲーリックの記録は小さな囲み記事となる。

このあたり、あの大作曲家・ブラームスに似ていなくもない。いくら傑作を書いても、その上にはベートーヴェンがいる、モーツィアルトがいる、それにシューベルトがいるって具合だ。

でも、ルースにも成し遂げられなかった三冠王。元祖満塁男がほこるように、23本は、今でもMLB記録だ。カル・リプケンに抜かれたとはいえ、2130試合連続出場の記録は、今もさん然と輝いている。

参考:『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)