史上最強打者に選ばれた男、タイ・カップ! 


“ジョージア・ピーチ”こと、タイ・カップ(Ty Cobb)は、「球聖」とも呼ばれる。野球選手の理想ともいえる走・攻・守と三拍子そろった「パーフェクト・プレーヤー」ぶりを、通算24シーズン、そのプレーで実証した。

「飛ばないボール」の時代、投手はボールにキズを入れたり、グリースを塗ったりとインチキ投球のやりたい放題。奇妙に変化する球を打つことは、なかなか至難の業だった。

カップのバッティング・スタイルは独特だ。両手の間を一握り開けて、バットを構える。ボールの変化に合わせて、タイミングをとるというまったくのハナれ業だ。このスタイルで終身打率0.367、リーディング・ヒッター12回(うち9年連続)。4割をマークすること、3度。まさしく怪物だ。これ以上、何を付け加えることがあろうか。
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守りに関しても、背中に目があるかのように、カンが鋭かった。天性のものなのだろうが、それ以上に、練習の虫でもあったのだ。それに、「科学的野球」の信奉者であったカッブは、試合にのぞむとき、相手投手のことはもちろん、おどろくべきことに気象条件などあらゆるファクターを調べ上げていたという。

また、価値があるのは、892盗塁の記録だ。ルー・ブロックに破られたとはいえ(また、その記録もモーリス・ウィルスが更新)、大リーグにスピード、いわゆる走力を武器としたのは、カッブが最初であろう。

そのおそるべきフック・スライディングは「殺人スライディング」として、相手チームの二遊間を恐怖に陥れた。ベース・カバーに入った選手のスパイクを蹴り上げるのだ。病院送りにした選手も数知れず。ヒマがあれば、スパイクの先を研いでいたというから、なおのこと恐ろしい。カップは、コトもなげに、
「野球は、戦争に似ている。赤い血潮をもった男のスポーツ」
だと、言い放ったものだ。そんなカップゆえに、エキセントリックな性格は度し難く、自チームの者からさえも嫌悪されていたというから、まったくもってあきれはてる。

生来の気性の激しさゆえ、選手同士はむろん、審判、それに観客と、手当たりしだいだ。口の悪さ、態度の悪さは、これもまた一級品であった。まさしく、球界一の嫌われ者だった。そして、「史上最低のバスタード」と、罵倒されもした。

握手をもとめてきた黒人のグランド・キーパーに思いっきり平手打ちをかませ、止めようとしたその男の妻まで首を絞め、あげくは仲裁に入ろうとしたチーム・メイトを蹴飛ばした。もちろん、汚いヤジを投げ捨てた観客にも、カップみずからスタンドに乗り込んで、思うさまぶちのめしたりもした。

有名な事件がある。その日、試合前からカッブをひどく野次る観客がいた。ついにカッブもガマンの限界に達し、切れたカッブはスタンドに舞い上がり、その観客をボコボコに殴り倒したのだ。

が、ここに一つの問題があった。はたと気がつくと、その観客は障害者だったのだ。もう、おさまりは着かない。これを重視した野球機構は、カッブを出場停止にした。

これに反旗を翻したのは、なんと自チーム・タイガースの面々。翌日のゲームを、ボイコットしたのだ。この緊急事態を憂慮したタイガース首脳は、前代未聞、公募により、アマチュアの選手たちを出場させたのだ。むろん、大敗である。

タイ・カッブは、1886年12月8日、ジョージア州バンクスに生まれた。

前述のように、いろんな物議をかもし出したカッブの出身は、イギリス貴族の血を引く名門の出である。しかし、地方の名士であり、厳格な教育者である父とは衝突ばかり。そう、いわゆる不肖の息子である。

とはいうものの、野球にうつつを抜かしていたカッブに、ついに誇り高き父親が折れた。カッブは、地元オーガスタ・ツーリスツと契約。プロ選手としての第一歩を踏み出した。カッブは野球人として一人前になるために、それ以上に父親に認められたいがために、出世を急いだ。

しかし、そんなカッブの前に予想もしない事態が起こったのだ。入団2年目のことである。父親が、母親に暴漢と間違われ誤射される悲劇がそれだ。最愛の父親の死は、カッブに大きな悲しみを与えた。

それでも、カッブの頑張りは続く。ことプレーに関しては、天才の片鱗を見せていた。後は、チャンスだ。それを、カッブはカッブらしくやってのけた。

自伝によると、
マイナーのアンストン球団在籍時、地元新聞社に日々欠かさず、次から次へと、ある無名の選手が大活躍したという内容のハガキが、何時の頃からか、舞い込むようになった。もちろん、その選手こそ、カッブである。その投書が記事になり、カッブは大評判になり、大リーグへのステップを駆け上がることになる。
ということだ。

オーガスタや、アニストンなどのマイナーを転々としたものの、1905年、カップは晴れて18歳にて念願の大リーグ入りとなる。

そのとき、例によってちょいと大リーグ好例の手荒な歓迎式をうけた。ハイランダース(後、ヤンキース)戦だった。

カップの初打席、二塁打コースになる打球をみて、果敢なる走塁でマイナーでも盛んにやってきたヘッド・スライディングをこころみた。が、タッチアウトのはずなのに、そのタッチどころか、あろうことかカップの首根っこにヒザを折って乗っかってきたではないか。あわれ、カップは顔面をひどくこすりつけられ、痛めつけられた。

ヘッド・スライディングは自殺行為だと、すぐさま思い当たったカップ。しばらくして、対ハイランダース戦のとき、今度は足からすべりこんで、この間のお返しとばかり相手の足を払ってやった。すると、
「坊や、それでいいんだ」
と、おせっかいやきな選手がいったというハナシがある。

以後、22年間、デトロイト・タイガース不動のセンターを守ることになる。晩年、コニー・マックに請われ、アスレチックスで2年間、ライトを守ったが、衰えを見せなかったという。

そうそう、その大量のハガキ投書事件には、オチがある。そう、投書していたのは、カッブ本人だったのだ。

1939年、野球発祥百周年記念行事として栄光の野球殿堂入りが制開設されると同時に、過去の有名選手を差し置いて、最多得票数で選ばれたのは、タイ・カッブだった。が、その時の記念写真撮影には、カッブは写っていない。遅刻をしたのだ。カッブらしいではないか。

参考:『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)