ディマジオは、純情で、シャイな男だった。そのじつカメラを嫌い、マスコミをも嫌ってもいたようだ。

さらには、ちょいと逆説的ではあるが、ディマジオ自身はまた、人々の注目からはずれるということには、慣れてもいなかった。それは、むろんハリウッド女優・マリリンも同じだった。それでも、マリリンと、ディマジオは、ロサンゼルスの質素な教会で式を挙げた。
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読売新聞の招待で、新婚旅行を兼ねて来日したが、このときから関係にヒビが入ったといわれている。マリリンが、予定には入っていなかった朝鮮戦争に従軍している兵士たちの慰問を引き受けたことを、ディマジオが快く思わなかったためとされる。

また、知的な会話はあまり得意ではなかったディマジオと、大の勉強家だったマリリンとでは、ふだんの会話からして、かみ合う部分がなかったともいわれている。

ともあれ、日本で注目を集めたのは、すでにスーパー・スターの座を退いていたディマジオではなく、マリリンばかりであった。

やがて、アメリカに帰り、マリリンは映画『7年目の浮気』の撮影に入った。地下鉄の通気口での、彼女のスカートがまくれ上がる、あの有名なシーンだ。撮影のさい、ファンを避けるため、真夜中におこなわれた。それでも多くの野次馬が集まり、スカートがまくれ上がるたびに、大きな歓声があがった。ディマジオは、それを遠くからジッと観ていて、ついには泊まっていたホテルで、2人は大ゲンカをした。

マリリンが離婚申請をすると発表したのは、その2週間後のこと。結局のところ、まさしくウワサどおり9ヶ月で離婚した。

それから7年後に、マリリンのナゾの死。1962年8月、彼女が遺体となって発見されたとき、その場に立ち会ったのは、ディマジオだった。葬儀をとりしきり、見世物となるのを拒んだのも、ディマジオだった。葬儀では、泣きくずれ、
「愛してる、愛してる、愛してる」
と、なんども別れを告げたようだ。そして、黒い花瓶にバラを飾り、
「1週間に2度…、いつまでも」
と、彼女のお墓に新しい花を届けるようにしたのは、ディマジオだった。かれの死後も、有志によって、それは続けられている。

1914年11月25日、ディマジオはシチリア移民で、貧しい漁師の9人兄弟の8番目、5男4女の四男坊として生まれた。兄たちの影響で、小さい頃から野球をはじめ、セミプロ、マイナーでもその才能はグンを抜いていた。

そのサンフランシスコ・シールズ(トリプルA)時代の33年に、61試合連続安打を記録を残している。なお、兄・ビンス、弟・ドムもメジャー・リーガーとなり、40、41、42、46年の4シーズンは、三兄弟のプレーが見られた。

その初年度をのぞいて、打率は3割台、4年目になると、本塁打は34本。守備位置は遊撃手で入団も、外野手に転向していた。パイレーツのパイ・トレーナー監督が惚れ込んだが、故障持ち(ヒザ)のため、フロントがしぶり、結局のところ、
「故障があっても、この成績は立派だ」
と、ヤンキースが契約。1936年のことだ。ディマジオ、22歳の時だ。

1939、40年に首位打者、1937、48年には本塁打王、1941、48年には打点王、1939、41、47年にはMVP、そしてベストナインは8回選ばれた。輝かしいばかりの成績だ。生涯打率は、.325。ディマジオは、史上初の年俸10万ドルの選手となった。

13年間、ディマジオは最強プレーヤーの地位を保ち続けた。1951年に引退するまで、”ジョルティン・ジョー”、”ヤンキー・フリッパー”の異名をとり、その名をとどろかせたものだ。

同年代に、同リーグには、テッド・ウィリアムズが、ナショナル・リーグには、スタン・ミュージアルがいて、ともに非凡な打撃記録を残し続けていたが、それ以上に野球ファンの関心は、いつもディマジオの上に注がれていた。

メジャーの数ある記録のなかで、もっとも破られにくい記録はといえば、カル・リプケンjrの「2632試合連続出場」と、ジョー・ディマジオの「56試合連続安打」をまよわず挙げるだろう。それまでの記録が1922年のジョージ・シスラーの41試合、また通算安打数・4256安打のメジャー記録保持者ピート・ローズでさえ44試合。いかにケタ外れの大記録であるかがわかる。

しかし、1941年7月17日のインディアンス戦で、K・ケルトナー三塁手のファインプレイでなどがあって、スミス、バグビー両投手に抑えこまれ、この記録が途切れた。それでも、記録が途絶えた翌日から、ふたたび16試合連続安打するなど、その精神力は図抜けていた。

親交のあったヘミングウェーは、名作・「老人と海」のなかで、
「彼は、メジャー・リーグのことを考えた。彼は、思い出す。今日は、ニュヨーク・ヤンキースと、デトロイト・タイガースの試合がおこなわれているはずだ。“大ディマジオ”は、踵のケガをかかえているのに、それをこらえて、最後まで勝負をやり抜く男だ。オレだって、負けちゃいられねぇ」
とばかり、老人の4日間にわたるカジキマグロとの死闘。その老人の心の支えとして、ディマジオが登場するのである。

それは、長年のツケがまわってきたのか、踵の軟骨のケガで苦しみ、1949年、ついに手術を受けはしたが、回復ははかどらない。65試合に欠場して、引退の危機にもさらされた。だが、シーズン半ばの6月末、レッドソックスとの首位決戦に、
「ラインアップに入れてくだい」
と、ボストンに急行し、ステンゲル監督に頼み込んだ。
「しかし、8ヶ月間もボールに触れてないんだよ。そんなのムリだよ」
と、いったんは断ったが、結局ディマジオに押し切られてしまった。ところが、3連戦で4本塁打、9打点をマーク。宿敵・レッドソックスを蹴落とし、この年ヤンキースはペナントを獲得した。そして、ディマジオは、残りのシーズン、わずか272打数だが、打率・346厘、14本塁打、67打点と奇跡の復活を果たしたのだ。引退する3年前のことだった。

※「記者魂」より;MWA賞最優秀新人賞受賞 ブルース・ダシルヴァ著 青木千鶴訳 早川書房刊。

★参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)